散歩から迷子へ
ぼくはどこへ行くのだろう
書けば書くほど自分のいるところが
分からなくなっていくみたい
初めの頃から見るとずいぶん変わってきちゃったね
「考えている自分」がぼくの本質で肉体は借り物
そんな感じじゃないかと漠然と考えていたんだけど
ただ「五蘊が無常」と言われると
反論の余地が無いんだよね
だから今のところ考え付く土台として
宇宙・存在・本質・演算子 なんでもいいけど
ぼくのいるところはある法則の中である
もちろんその法則というものは
人間には認識できない
ただそのうちのなんとか理解できそうな部分が
ミンコフスキー閉鎖平面図表上ってこと
精神と肉体というように分類しがちだけど
精神も肉体も同じく変転し経年劣化をおこすもので
人間というものをあえて分類するとしたら
五蘊と魂 ということになる
だから生というものの担う対象物は五蘊である
魂とは存在寄りの概念 人間の認識能力の及ばないもの
あえて言語表現をするのならば
ブラフマンとアートマンの関係に似ているのかも
であるとすると魂とはアートマンである と言えるかもしれない
こんなところなのかもしれないね
ブラフマンとアートマン
ヨガというかウパニシャッドというか
古代インドの思想の中に出てくるのが
ブラフマンとアートマン
諸説色々あるからこれが正解だ っていうのは
人それぞれだろうけど
漠然とした概念だけでも書いてみよう
ブラフマンというのは
真理 存在 宇宙(世界の根源) って感じかな
ある意味西洋思想の神に通じるものがあるかもしれない
ただし 一神教(多神教でも)で例えられるような
人格を持った存在ってわけじゃない
永遠不変のすべてを超越しながら全ての中にある
ある意味宇宙演算子説みたいなもの
ブラフマンに意思があるのかどうかについては
後の宗派によって分かれるけど
基本は「ただそこに在る」 ってものみたいだね
アートマンについては仏教では否定的みたい
ただ その根底には取り入れられているんじゃないかな
輪廻転生とか解脱の概念は大乗仏教では
否定されているように見えるけど
宗教として拡大させていくうえでの否定のように見える
アートマンというのは人間・動物を問わず
各生物の中にある『自己』の概念だね
真我といわれる自己の本質
個の中で「内なる自己」と呼ばれるらしい
五蘊を観察している存在みたいなものかな
ヨガや瞑想なんかでは「わたしは何者か」という
自己追及が求められるのは
アートマンとの一体感を求めているのかもしれない
さて ややこしくなるのがこの2者(?)の関係
ブラフマンとアートマンとは同一のもの
とは言われているみたい
イメージとして本質と状態の関係みたいなものかな
例えで出されるのが
ブラフマンは大海 アートマンは波 ってやつだけど
これを現れ方の違いとみるべきか
本質の違いとみるべきかは明確にはなっていない
インド哲学や宗教では本質としての自己に気づくことによって
宇宙の真理と自己の本質とは同じものだ
ということが分かるってことになっている
真理や存在と個が一体化するってことだね
個々の人間たちに あなたは宇宙の真理と同じものだから
現生という生の中で個々の欲や自己主張などには
意味が無いんだよ ってことかもしれないけど
ある意味 ボコノン教の
「我は神なり」と同じような気もするね
納得しきれない部分
ブラフマンとアートマンという呼称は
良くできているとは思うんだ
存在という常に論議をよぶ概念と
個の魂という部分の呼称としてはね
ハイデカーさん流に言うところの
存在がブラフマン
現存在がアートマン
って感じじゃないかな
では なぜ個々の生命にアートマンがあるのか?
ここのところがどうしてもわからないんだよね
たぶん 生命とは何かという疑問にも繋がるんだろうけど
ブラフマンという絶対の真理は全ての存在にあてはまるはず
それなのにわざわざ生命というもの個々に
アートマンというものを付随させる意図はなんだろう
自己の本質と宇宙の真理は同じものだということに
気づくことが人間の究極の目標 って
人間の五蘊が魂を実感することが目標ってことだよね
人間の生の間に持たれる行動や思想が
どこまでブラフマンに近づけるのか
そして実感できなければ
再度他の生を繰り返していくというのが
輪廻転生の基本概念
生の間にブラフマンと己の本質(アートマン)が
同じものだと気づけば解脱できるってことなんだと思うんだ
解脱
解脱っていうのは輪廻の輪から脱出して
涅槃にたどり着くことみたい
涅槃っていうのはどうやら人間の最終目標らしい
(特に仏教界では)
すべての苦しみ・煩悩が完全に消えた安らぎの境地と言われている
言い換えれば 人間(生物)には生・病・老・死という
苦しみがあるってことだね
悪い言い方をすれば生きているってことは
苦痛を背負っているってことかもしれない
特に人間には『識』という認識や意識 知恵なんてものがある
その識が真理というものに対して
あまりにも無知だった場合 間違った認識のため
その苦痛が増していく ってことなんじゃないかな
この間違った認識のことが『無明』ってやつだね
インド哲学・宗教の基本は
世界・宇宙・存在というものは
一つの法則として在るってことじゃないかな
その法則という世界でぼくたちは存在している
なんとなく説得させられそうな話だね
人間はただ単に法則という存在
だから生きている間に悩んでいる事なんて意味がない
悩みなんか意味が無いということを悟って
涅槃にたどり着くことが人間の本来の姿
もっともな説法だと思うよ
だけど 悩みも苦しみも無い世界と言われる涅槃
ある意味『無』の世界
それって素晴らしいところなんだろうか?

