散歩の途中

独り言

もう少しまとめを続けよう

存在=オートマンと仮定してみる。単純に呼び名が違うだけで存在もオートマンも演算子も同じものを指しているのかもしれないけれど。生物・人間・個 それらは決して存在を認識することはできない。それを生物の限界と捉えることは十分に根拠がある。ただし存在と生物が相容れないものであるとしてはたしてそこに優劣の関係はあるのだろうか。
独り言

ひとまずのまとめ

人間の観測能力の限界 それがある限り本質(存在)にはけっして届かない。どうやらそれが結論になりそう。本質的には交わることが出来ない全体に参加できる時まで孤独な『個』という存在として旅を続けていく。それが人間(生物)の宿命と考えると自身の不安・焦燥は理解できる。ただ そうなると自身の『個』という概念はどこにあるのだろう。
独り言

再度保留 もしくはいったん白紙へ

世界の真理 存在の正体。大上段に掲げてみても結局は人間の認識能力では正解は見つけられない。もし正解にたどり着いたとしてもそれが正解かどうかの判断がつかないというのが人間の限界。日々の生活という人間界の中での価値判断は本質をゆがめてしまう。己がどう生きるのかと己とは何者なのか。たぶんこの二つは両立しない概念なのだろう。
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独り言

いったん保留

肉体と魂との区分はどこにあるのだろう。西洋風の考えている自分と物理的実体としての身体 この分け方自体には少々無理がある。魂を不変とするのならば自分自身の考え方が日々年月とともに変化を起こすことの説明が付かない。仮説として五蘊(色・受・想・行・識)すべてを肉体とする方法がある。では魂とは個にとってどのような存在なのだろう。
独り言

死 肉体と魂

生物の死 絞って人間の死は肉体と魂の分離である。この仮定はある意味正しいのかもしれない。では肉体とは魂とは何を指すのか。単純に物理的実体としての人間を肉体とみなすのか五蘊(色・受・行・想・識)すべてを肉体とみなすのか。ではそして魂は思索・思考の部分もなのか存在の一部もしくはそのものとみなすのか。難しい問題には違いない。
散歩の途中

一縷の希望

散歩の途中は物語でしかない。『わたし』と『エオ』の問答集で構成されている。だけどプロローグとエピローグには小説風の描写がある。最後にはやはりその部分を入れておこう。セカンドである「わたし」の立ち位置はどこになるのか。そして「わたし」というセカンドとファーストの関係は。語られてはいないが 示唆はされているのかもしれない。
散歩の途中

セカンドと宇宙

知覚できないものを認識する能力。それがどういった意味を持つのか 結局なんら確証がは出て来ない。セカンドと呼ばれるぼくたち人類はただの使い捨ての道具。これは納得してもいい。ただ無理やり作られた装置だけに予期せぬ危険性を秘めている。そして その危険性は宇宙に対してであって個人にとっては新たな可能性なのかもしれない。
散歩の途中

ひとまずまとめてみよう

人類という存在はセカンドというものに分類される高性能排水装置 納得するかしないかは関係なく憶測としてはおかしくない。そして高性能すぎるがゆえにイレギュラーを起こす可能性があり そのイレギュラーを防ぐためにセーフティ装置が設けられているというのもわかる。ただ そのイレギュラーが必ずしも欠陥で無いとしたらどうだろう?
散歩の途中

ファースト Ⅱ

「知覚できないものを認識する能力」 そうとう特異なの能力かもしれない。われわれにとって知覚できないということは『無い』に等しい。知覚できない存在を認識するということは無から存在を生成してしまうということになりかねないか? その力に目覚めさせないために35億年という時間を使って進化の刷り込みが行われているのかもしれない。
散歩の途中

ファースト Ⅰ

われわれ人類がセカンドと呼ばれる排水装置の最終形だとしよう。効率だけで考えれば最大効率の排水装置を使えば物事は単純に進むはず。では なぜ初めからその手段を使わないのか。高度な機器になればなるほど取り扱いが難しくなり 暴走を起こさないための制御装置が必要になるからだ。われわれセカンドの制御装置 それが進化の刷り込み。
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