哲学的考察
東洋哲学なんて大上段に構えると
さてどのあたりから書いていいのか難しい
西洋の哲学と言えばギリシャ哲学なんていうのが
一番に出てくるけど
ギリシャ哲学の元をたどれば
エジプト哲学 もしくはエジプト神話に端を発するんだから
根源を探るのは難しいね
東洋 特にインド哲学については
宗教なのか哲学なのか境界線があやふやだから
より困ってしまう
ヴェーダやウパニシャッドが
哲学なのか宗教なのかと問われると
はっきりと答えられる人はいないんじゃないかな
ただ源流として流れるものを考えれば
やはり『ヨガ』が出てくるような気がする
昨今ヨガというと
肉体的なポーズや運動がクローズアップされているけど
本来は肉体と精神の調和から
最終的には魂の解放を目指すという
実践的方法論が例のポーズなんだよ
ヨガが発祥なのかインダス文明あたりから
その思想があったのか知らないけど
人間とはなにかに対する解答として
肉体と精神が単独で存在するものではなく
協調して初めて人として成り立つ
そんな考えかただったのかもしれない
肉体は心の影響を受け
心も肉体の状態に影響を与えられる
だから心身の調和が必要だ ってことだろうね
その調和をもたらすために
外部から生命エネルギー(プラーナ)の吸収して
肉体と精神のバランスを整える
この肉体と精神のバランスをとることによって
はじめて魂の解放(アートマンのモクシャ)が
得られるってことになっているんだけど
アバウトすぎてわかりにくいんだよね
精神・心・魂
『精神』『心』『魂』ってよく使うけど
必ずしも使い分けが出来ているかどうかは疑問だね
余談にはなるけれど この辺りの言葉の使い方で
解釈が複雑になるような気もするよ
断片的に覚書程度に書いてみよう
まず西洋(哲学・宗教含めて)
『精神』:一般的に知性 理性 意識の領域のことかな
思考 論理 認知 分析的な判断力なんて感じで使われる。
極端な言い方をすれば人間の思考=精神なのかもしれない
『心』:感情 意志 感覚 情緒といった感じかな
特に感情面での使い方が多いのかもしれない
幸せや徳なんてあやふやな概念も
心の担当分野みたいだね
『魂』:人間の本質的な自己 生命の根源 道徳的・霊的な側面のことかな
魂は精神や心を超えた存在
なおかつ精神や心の上位にあるという感じかも
魂が肉体と密接な関係を持っているのか
どちらかと言えば存在側に位置しているのか
そのあたりの考え方の違いが
二元論や魂実在論なんて異なる説が出てくるんだろうね
単純に言えば人間にとって精神は理性とか思考の部分
心は感情 魂は精神・心
そして人間を人間たらしめているものが
魂ってことじゃないかな
東洋でも精神・心は似たような捉えられ方がされているみたい
精神は知性 心は感情みたいな感じ
少し捉え方に差が出るのが魂かな
東洋では存在というのか宇宙意識というのか
すべてのものには大元があるとされているみたい
世界(宇宙)は物質世界と精神世界混合物
そのすべてを司っているのが宇宙的意識(大いなる意識)
ヨガなんかではブラフマンと呼ばれているね
で 人間にはそのブラフマンの
一部(?)が肉体の中に包み込まれている
って 理解しにくいな
ブラフマンが分割できるのか? っていうのも
大いなる疑問だし 人間の肉体に内包されているものが
ブラフマンの一部なのか そのものなのかについても
詳しくは書かれていない
ただ人間の魂はアートマンと呼ばれ
アートマンと肉体が調和されることによって
本質的な存在へと導かれるってことになっている
どうやら最終目標は
アートマンがブラフマンの領域に達する
もしくは一体化するのが良しとするみたいだね
宗教的考察
前にも書いたけどもともと東洋思想は
哲学なのか宗教なのかよくわからないところがあるんだ
ひとまず仏教で考えてみようか
西洋の宗教では肉体は神が創り上げたとしているね
(泥とか大地を切り取って)
仏教では肉体をだれが作ったかという表記は
ないんじゃないかな
肉体というか人間というものの
生成過程は『五蘊』かもしれない
聞いたことがあるかもしれないけど
色・受・想・行・識という言い方をするものだね
色は物質的形態 受は感覚(感性) 想は知覚・認識(理性)
行は行動や意思決定かな 識は意識。
この内 肉体部分に相当するのは色だね
色をなにかの神聖なものが創り上げた
人間でいうのならば人体というものを
なにものかが作成したという記述は無いみたいなんだ
元々ある物理的実体に
魂が入り込んで生物というものが出来上がった
そういうことなんだと思うよ
諸説あるけど仏教では一応生物が主体だね
仏教以前の宗教観ではありとあらゆるものに
魂が宿っているという説もあるけど
魂とはどこから来るのか?
根本的な思想としては大元の
ブラフマンの分家ってことになるのかな
肉体とは物質的な存在で
無常(常に変化している)で
精神や心にも物質的変化による『苦』を与えるものとしているね
仏教では肉体だけではなく
精神・心も常に変化していくものとなっているのは
肉体と精神 心というものが
一体化しているということみたいなんだ
他の生物はいったん考慮に入れずに
人間だけで考えてみよう
人間というのは五蘊で構成されている
(色 受 想 行 識だね)
そして色である肉体 受である感覚 想である理性
行である行動 識である意識は常に変化するってこと
そしてその肉体・精神の変化は
生老病死という変転の中で苦痛を生み出すということだろうね
死
肉体は当然のことに朽ちていく
精神・心も同じように朽ちていく
仏教では肉体も精神・心も
死と共に滅ぶってことになっているみたい
ではその後に何が残るのか?
魂ってことになるよね
西洋風に考えて肉体が滅びた後
魂がどこへいくのか?
ブラフマンの元に戻るという説もあるけど
これは少し人の因果論にとらわれ過ぎじゃないかな
西洋風の考えかたならば
神の一部が個の人間に分け与えられて
肉体が滅んだ後は神の元に戻るという発想だけど
仏教の発想は違うような気がするね
アートマンがブラフマンの一部という考えかたじゃないみたい
一個体に与えられている魂(アートマン)は
死後もまた一個体として存在する
そういったことじゃないかな
だから輪廻転生という発想が起きる
仏教では神の元へ戻るという発想は
選ばれたものにしか与えられない
神というよりブラフマンという存在自身に戻るってことかな
あくまでもぼく流の解釈だけど
存在という演算子と
個体(人間でもいいけど)に含まれる演算子とには
ギャップがあるってことのような気がする
一個体に含まれた演算子は流転(無常)の中で
組み替えられて行き 存在の演算子と同等となってはじめて
存在という演算子に戻っていく
そういうことなんじゃないだろうか
一つの生の中で演算子の組み換えを起こし
まだ未完成の場合は次の生を過ごす
前世での業が
次(次の次とも言われるけど)の生に引き継がれるというのは
計算間違いを次の生で修正して
再度計算する なんてことかもしれない
仏教的感覚で言えば
肉体が滅んで魂が残るというよりは
色受想行識の内肉体としての色
そしてそれに付随する受想行が滅び
識だけが残る そんな感じかもしれない
これは識=アートマンという関係なのか
それとも識≠アートマンで魂とはあくまで別の物なのか
そのあたりは明確ではないけれど
単純なまとめ
西洋と東洋の著しい違いは
『魂』の定義じゃないかな
現生で魂と肉体が共同作業として
魂の浄化をおこなう
この辺りは似ているかもしれない
もっとも『浄化』というものに対して
伝承が伝えられるにしたがって
歪な変更点が加えられていくから
現在伝わっている浄化方法っていうのは
初期の説を各時代の統治者たちが都合のいいように変更したものが
現代に残っているだけ
だから 何を持って浄化というのかは謎だけどね
さて『魂』だ
考える とか 感じる という部分を
魂の一部とみなすのが
西洋風のように思えるね
極端に言えば 信念とか
何があってもこの部分だけは曲げられないなんていう
意志や美学を魂と呼んでいるような気もする
東洋ではやはり仏教的に
五蘊(色・受・想・行・識)が生体(肉体)
魂はアートマンとしてぼくたちの
思想や意思とは無関係なもの
そんな感覚のような気がする
ただ 識=アートマンと考えるのか
識はただの生態の一部でそれ以外に魂が存在するのかが問題
五蘊=生態とするのならば
肉体というもの もしくは生命体というものは
生身の身体だけじゃなくて
肉体の外部のものを知り それを判断
そして行動や自分の方向性を導き出し
自我として総合的に判断するという個体すべてを
『肉体』という呼称にまとめているような気がする
ただそうなると個の自我というものは
識とは別物なのだろうか

