死とは何か
死というものの正体は
(生きている)人間にはけっして認識できないのかもしれない
ぼくたちが一般に『死』と呼ぶものは
『生』の終了のことであって
その先のことは研究出来ないんだろうから
死とは何か で調べてみると
宗教・哲学の一部を除く いわゆる自然科学の分野だと
医学的定義や生物学的定義にしか行き着かない
人間のみを対象の医学的定義でも
心臓死・脳死を基準にしているけど
はたしてそこが実際の生の終焉かどうかはわからないんじゃないかな
ちなみに 心臓死は
心臓の拍動が完全に停止 自発的な呼吸の停止
心電図での活動が確認できない なんてところ
脳死は
脳波が検出できない 脳幹反射が消失
意識の回復がない 呼吸反射がない ってところかな
ただこれらは臓器移植などの便宜を図るために
基準が創られたという側面もあるかもしれない
生物学的に見れば「生命活動が完全に停止した状態」とは
生命維持のためのすべての機能が停止
そういったものになるはずなんだ
生命維持のための機能として挙げられるのが
呼吸の停止 血液循環の停止 脳機能の停止(脳死)
細胞の死(壊死) 代謝の停止 細胞の機能不全
なんてところ
これらのすべての機能が停止した状態が
肉体の『死』ってことになりそうだね
さて問題は『魂』だ
マクドゥーガルさんの発表みたいに
魂の重さが21gなんていうのは
どうにも納得が付く話じゃない(ぼくにとっては)
人間が死亡した時に重量が21g減るという
研究成果が出たってはなしだけど
それだと精神的実体が物理的実体を持つってことになる
精神的実体が物理的実体を持つとなれば
当然現代の物理研究から逃れることは
難しくなっちゃう
たしかに物理的実体でありながら観測不可に近いものはあるだろうけど
エネルギーの変化が及ぼす
他の実体への足跡を隠すことは難しいと思うね
デカルトさんの二元論で精神的実体と物理的実体の
交差点として考えられた『松果腺』説のように
エネルギー保存則のところから
反論が湧き上がってきそう
もっともエネルギー保存則自体が間違っているかもしれないけど
とにもかくにも『魂』の死については
まったく五里霧中ってところだね
独断と偏見で作る土台 Ⅰ
まるでわからないってことに対しての
アプローチの仕方として出来ることと言えば
演繹的アプローチしかないだろうね
数学的に正しい演繹法はもちろん使えない
だから 当てずっぽうというか
独断と偏見でアプローチするしかないってこと
土台としてわかっていることは無いに等しい
土台から独断と偏見なんだから
その上に築かれる論理なんてとてもじゃないけど
まともなものじゃない
ただたんに 頭の中のお遊び
思考の散歩としてはおもしろいんじゃないかな
まず 独断と偏見の土台から考えてみよう
宇宙・存在 なんでもいいけど
ぼくのいるところはなんらかの法則で成り立っている
そんな場所にぼくたちは存在しているとしよう
それを物理学の研究で『場』とか『演算子』と呼んでいるってこと
ぼくたちが存在している場所の外部に
違う性質の場所があるかもしれないけど
そのあたりはいったん保留にしておこう
その場所はミンコフスキー図全体を占めている
ただし人間という三次元物理的実体の認識可能領域は
全体図の1/8でしかないっていうのは
何度も書いているよね
さてそのミンコフスキー図の原点に
ぼくはいる ってことになる
もしくはそれぞれの人間(生物etc)のいる場所が
それぞれの原点だと考えよう
二次元平面図で考えるといかに人間の認識範囲が
1/8だとしてもその広がりは無限になってしまう
無限てやつは数学上あり得るけど
これも人間の認識範囲を超えてしまう
だから ミンコフスキー図は平面ではなく
全体としては球体に類似した
閉鎖平面と考えたほうがいいのかもしれない
そのミンコフスキー閉鎖平面図表上に
ぼくたちはいる というのをひとつの土台にしよう
独断と偏見で作る土台 Ⅱ
人間という存在を仏教風に五蘊としよう
色(肉体)・受(感性)・想(理性)・行(行動・意思)・識(意識)
これらすべてを物理的実体とするよ
感情やら思索を西洋では『魂』の分類に入れている場合が多いけど
現生で思索や想いもすべて物理的実体ってことだね
なんといってもこの辺りの精神作用は
物理的計測が可能なんだから
肉体と魂という分け方をすると
どうしても身体と精神・心みたいな捉え方になるけど
肉体の劣化・消滅が当然ととらえられるように
精神・心も劣化・消滅すると考えていいと思うんだ
この考え方なら魂の重さ21gも
精神・心の運動エネルギー(たぶん脳波に関係するかもしれない)が
肉体の死と時を同じくして静止することによって起きる
運動エネルギーの消滅として考慮できるんじゃないかな
そういう仮定をすればエネルギー保存則も
何とかクリアーできる かもしれないね
『生』とは『五蘊』
これも土台の一つにしてもいいかもしれない
身体・精神・心で現生の人間は成り立っているってこと
死とは五蘊の活動停止の状態を指している
ただそうなると死亡判定は難しくなりそうだね
そして色・受・想・行・識のどれか一つでも欠ければ
死ということになるのか
全てが欠けないと死とはならないのか
そのあたりはもう少し考慮の必要はあるだろうけど
では『魂』とはなにか という問題が残っちゃう
ぼくがこれまで聞きかじった言葉の中で
一番近いのは古代インド哲学の
『アートマン』と『ブラフマン』かも
ブラフマンは宇宙の根源的原理・絶対者みたいな使われ方をするけど
現世風の言葉で言えば『存在』 ってことになるのかな
問題はアートマン
自己の本質なんて訳されているけど
どうも身体・感情・思考を観察しているもの って感じらしい
これは曰く『五蘊』を観測するもの ってことで
『アートマン』=『魂』 って感じだよね
もっともウパニシャッドや後期(8世紀頃かな)のシャンカラの
ブラフマン・アートマンは同一であるという
『梵我一如』という考えかたには
大賛成と言う訳じゃないけど
結局『死』とは
どんどん分からなくなっていくね
死というか死後を考えるためには
生とはなにか? ってことになってくる
現状生きている(たぶん)ぼくが死を考えるとしたら
ぼくとはなにか? が分からないとどうしようもなさそう
これってある意味矛盾が起きてるよね
初めの段階で「ぼくとは何か」を知りたいから
「死とは何か」を考えようとしていたつもりだったんだけど
生とは五蘊である
これはひとまず納得したことにしておこう
生物という大きな括りではわからないけれど
人間に関して言えば
五蘊と魂の合体物ってことでいいのかもしれない
もっともなぜここに『魂』ってものを
無理やり入れなくちゃならないのかは疑問かも
人が死ぬのは別に魂が肉体(五蘊)から
切り離されたからじゃない
肉体(五蘊))は耐用年数が
決まっているってだけのことなんだろうね
では『魂』ってやつはなんだ ってことになる
受・行・想・識は物理的実体の所以
その考えは否定しきれない
ただそうしちゃうと漠然と想っちゃっている
特別な存在としてのぼく ってものを
全否定することになっちゃうから
困るだけなんだけど
だからひとまずの気休めとして
生とは五蘊と魂の合体物ということにしておこう
では魂とは何か?
無理やりの仮説として
存在・宇宙の一部 もしくはそのものってことにしてみよう
ブラフマンとアートマンの関係みたいなものだね
では 『ぼく』という存在は
五蘊なのか魂なのかという問題が残ってくる
これまでは肉体なのか精神なのか
そのあたりで考えて来たけど
どうやら精神・心というものと魂とは
完全に別物として捉える必要があるのかもしれない
そして魂はどちらかと言えば『存在』寄り
そうなると当然人間の認識能力では
観測することができない って
どうしようもないジレンマが待っているだよ

