個人
個人 もしくは個ってなんだろう
個人 個体 いろいろな呼び方をされているけど
どこかしっくりこないように思うのは
ぼくの頭が悪いからだろうか?
個人や個体を論じるということ自体
おかしな話だと思うんだ
論じるということは他者との
コミュニケーションをとるということ
他者との比較対象を前提とした個人論って
成立するとは思えないんだけどな
個は集団の中の一分子だという捉え方になっちゃう
たしかに人類がこれまで作り上げて来た学問体系は
『人間が……』という前置詞がついている
これは当然のこと
でないと 学問 特に科学としては成立しないんだから
だけどそうすればするほど
個人というものの存在は希薄になっちゃう
モル数に達しない集団の行動は
確率論でしか語れない
だとすれば個人の行動も確率論でしか語れないのか?
ぼくの頭の中ではどうしても納得できないんだよね
猫が死んでいるのか生きているのか
(シュレティンガーさんのはなしだよ)
生死が重ね合わせの状態というものは
現実ではないはずなんだ
あくまでも個は多世界解釈でしか語れない
生と死の分岐点で世界線が変わってしまっているだけでね
確率解釈は集団 それも個に対して
十分に大きな そして個がモル数に達しない集団にしか
適用できないんだと思うんだ
ではモル数に達した集団ではどうなるのか?
あくまでも想像だけど その時点で
個というものの存在は全体の中から消滅する
そう考えても良いんじゃないのかな
ぼく
さて そこで問題
人類の中の一分子の『ぼく』
この『ぼく』とはなんなんだろう?
人類の一分子と考えれば
人類なんて言わなくても 組織の一分子と考えた場合
『ぼく』の行動・思索には意味が無いとは言えそうだね
組織が小さければその行動・思索には
その組織の行動を左右する力はありそう
恋人・夫婦・家族・友達
この辺りまでは影響が在るかもしれない
親族・自治会・学校のクラス・小さな会社や集団
この中に入ると個体差が出てくるんじゃないかな
ある程度その組織に影響を与える人もいるかもしれないし
ただ 参加しているだけの人もいるんだと思うよ
もう少し集団を大きくしていってみよう
町や市 中クラスの会社 学校全体
このあたりまではまだ影響力を持つ人は居そうだね
県や州 大企業
ここでもまだ少しは影響力はあるかな?
ただ 個人が単独で意思決定が
出来るという状態ではなくなってくる
国は?
民主主義では個の意思決定というものは
この辺りでほとんどなくなってくる
小集団の意思決定が影響を与えるってことにはなりそうだけど
独裁や君主国家でも似たようなことが言える
小説なんかでは独裁者の一言で
政治が動くようなことが書かれているけど
実際には周りの状態がその意思決定を
促していくことがほとんどだろうね
組織の中での『個』
その考え方で行けば集団が大きくなればなるほど
個の存在意義は希薄にはなってくる
ただ それはあくまでも集団の運動に関して
集団の中の一個体としての人間と
『ぼく』もしくは『あなた』という
ひとつの個性を持った存在とは同じものなのか
その疑問は当然わいてくるよね
ハイデカーさんのいう存在者と現存在の区別のように
現存在というものは存在者や存在とは
一線を画した存在だとは思うんだ
そして 『ぼく』にとっての現存在は
『ぼく』しかいないんだから
ぼくの外側に在るものはぼく自身の投影図
そう考えるのが妥当じゃないかな
もちろん『ぼく』という現存在は
それこそ無数に存在しているはず
個は多世界解釈だと仮定しているんだから
その無数の『ぼく』の中でも
現時空の単一の存在こそが現存在ってことじゃないかな
もしかするとハイデカーさんの存在者という概念は
他の時空間にいるぼく(現存在)のことかもしれない
一般に認識されている(関わりのある他者としての)存在者というのは
現存在にとっての存在知 ってことかもしれない
組織・集団・宇宙
これらのぼく以外のものから見れば
ぼくという現存在はまるで意味を持たないもの
だけどぼく(現存在)から見れば
組織・集団・宇宙 なんていうものは
あくまでも『存在知』でしかないもの
どんなものでも切り取り方で
見え方が変わるっていうのはあたりまえだけど
そう考えると『個人』ってものも
まだまだ捨てたものじゃない って思えるね
観測
量子力学で分かりにくさを演出しているものに
観測効果 ってものがある
量子力学に至る前から
観測という行為が観測値に影響を与える
そういう懸念はあったわけだけど
量子力学の場合は少し違うみたいだね
量子ってものを研究していった結果
量子の位置と運動量は確定できないという
結論が出て来ちゃった
それなのに観測された量子は
位置・運動量が決まっちゃうのはなぜ?
そういうところでいろいろな理屈が考えられていたんだ
現在のところ優勢な理屈としては
波束の収縮ってやつなんだと思うけど
でも このはなしのどこに問題があるんだろう?
まず 観測って何? って問題があるよね
人間がその持っている外部観測装置
たとえば肉眼とかで観測しているって場合もあるし
技術力を生かした機械での観測ってものもある
人間が肉眼で観測するとしても
その人間って誰なんだろう?
何人かのチームが観測しているとしても
事象を認識するのはあくまでも個人
器械の観測データにしても
そこに導き出される観測結果は
たしかに人為的な制約は受けないだろうけど
観測結果を読み取るのは
人間という抽象的な存在じゃなくて個人
だから世界(宇宙でもいいけど)という事象は
位置・運動量がけっして確定できない
確率でしか表せない世界だとしても
個人にとっては確定された事項
観測はあくまでも個人が成すものなのだから
いかに世界が確率でしか語れないものだとしても
個人が観測したとたんに確定されるのは
当たり前のような気がするね
あくまでもぼくの偏見でしかないけど
世界は確率解釈 個人は多世界解釈
それで良いんじゃないのかな

