認識と知覚 Ⅰ

独り言
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知覚と認識

知覚ってわかったような気になっているけれど

人間の理解 もしくは思考の内

どの部分を知覚というんだろう

ぼくのよく使う外部観測装置

人体という宇宙船に備えられたセンサーが捉えるもの

極論で言えばそうなるのかな?

目・耳・鼻・舌・手 なんていう

触覚センサーが感知したものを

知覚と名付けるというような気もするけど

でもこの言葉 多くの解釈があるから

困ってしまう

一般に調べれば

外部の刺激を感覚器官が受け取り

それを脳が処理して理解する

そこまでをひっくるめて

知覚とするという解釈が多いみたい

単純に言えば

物理世界から得た情報を人間が認識する

その全工程を知覚と呼ぶみたいだね

では認識ってなんだろう

これも一般的解釈では

外部の刺激や情報を受けとって

それを理解 意味づけをするための

精神的過程ってことになっている

一見同じような使い方に思えるけど

どうやら意思というものの関与をどう捉えるか

その辺りに差異を持たそうとしているのかもしれない

知覚はぼくたちが世界を理解し

反応するための基盤となる心的なプロセス

認識は知覚で得た情報の

理解 解釈などの自分なりの意味付け

そういう分け方なのかな

印象と観念

この辺りの問題は

哲学のジャンルに入ってくるのかもしれない

哲学のジャンルに入っちゃうと

言語というあやふやなものの障壁という

困った問題も出てくるんだけど

なんとかイメージだけでもまとめてみよう

一見 理路整然としたもののように思える

数学だって言語なんだから

言語のあやふやさが必ずしも 

不正確とはならないかもしれないからね

外部観測装置と思考判断については

数多くの哲学者さんたちが

散々苦労してきた分野

だから ほぼ同じようなものを指し示している事にも

違う名称がつけられてくるから困ったもんだ

代表的なもので言語表現をまとめてみようか

わりとわかりやすいのは

ヒュームさんかな

すごくいい加減な話になるけど

目の前に物が在るとするよ

分かりやすいように視覚で考えてみよう

目の前の物自体が電磁波を発する

もしくは太陽とか電灯の電磁波が

物に当たって反射する

その電磁波の内 可視光と呼ばれる波長の波(光だね)が

目まで届く っていうのが第一段階

その光を目の焦点レンズが網膜に

像を描く っていうのが第二段階

描かれた像の情報を神経を通して

信号として脳に送る っていうのが第三段階

脳の中でその信号を

像として再び描く っていうのが第四段階

描かれた像を解析するのが 第五段階

本当はもっと複雑な工程がなされるんだろうけど

単純化すればこの5つの工程が

物を見るという作業には必要なんじゃないかな

ただ最後の第五段階の『解析』って部分は

人間(生物)の思考に関わることだから

一括りでまとめるのはどうかと思うけど

ヒュームさん この5つの工程の内

1~4までを印象 5を観念ってことばで表した

そして印象も観念も単純なものと複合的なものという

二種類の構造を持っているってことにしたんだ

要は人間が物を認識するということは

単純印象 複雑印象

単純観念 複雑観念の

4つの段階に分かれるってこと

哲学の世界での大勢としては

印象の部分について ほぼ同意見が多いんだ

感性・悟性なんていうのは

印象の単純部分と複雑部分みたいなものだからね

観念の部分は微妙だけど 多くの意見が対立するのが

最後の第五段階 解析の部分じゃないかな

観念

ヒュームさんに戻ってみよう

外部から取り入れた情報(印象ってやつだね)が

脳なのか魂なのかは別として

人間の思考中枢に届く

その情報が思考中枢を刺激する

その記憶を人間は『データ』として

記憶する って流れ

このデータの部分がパースさんの

人間は記号を使わずに考えることができない に

通じる部分だね

外部から入ってくる情報は

時々刻々入力されては消えていく

思考中枢に残るのは刺激から得たデータだけ

このデータのことを

ヒュームさんは観念としたみたいなんだ

だからこのデータには

単純データと複雑データがあるってこと

それ以前の感性・悟性・理性という思考のプロセスを

感性・悟性・単純理性・複雑理性と

より細かく部類したんじゃないかな

単純理性はある意味 反射認識

スポーツ選手や武道家が

考えるという作業を飛ばして

刺激に対して動くみたいなものだろうね

ぼくの言う 潜水艦の自動制御装置ってこと

複雑理性はあーでもない こーでもない って

頭の中で考える作業ってことでいいかも

ひとまず印象と観念 この二つを人間の思考としようよ

そうすると 印象を知覚 観念を認識

そう定義付ければぼくの中ではすっきりするんだよね

理性(観念)の単純・複雑はひとまず置いておいて

外部情報を逐次受け取り

その印象をデータとして思考中枢にため込み

次に入って来た刺激を現行のデータと比較参照して

物事を判断していく

その流れが人間の思考方法なんだって

ヒュームさんは結論付けたわけだ

観念論としては至極当然の帰結だと思うよ

余談になるけど観念と印象の関係についてヒュームさんは

「すべての『観念』は『印象』から生じ

『印象』は『観念』の源泉になる

だけど『観念』から『印象』は生じない」

っていっているね

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