量子論とは
この辺りまでが量子力学の
まとめってことになるんだろうね
物質を細分化していけば
究極そこに在るものは
波動関数に従う量子ってものになっちゃう
これが結論なんだと思うよ
では ぼくたちの知っている
物っていうのは何だろう? ってことになる
そしてその人間が観測行為を行うと
波動関数に従っていたはずの量子が
粒子として目の前に現れちゃう という現実に
なかなか理屈を付けられなくて
ああでもない こうでもないという議論が
起こっているんだと思うんだ
量子論の結論
物の細分化されたものは波動関数に従う量子
それを正しいとしよう
だとすると 観測している人間っていうものも
波動関数に従っていることになる
波動関数に従うということはじぶんのいる場所を
定点とすることができないってことにならないかな
なんといっても不確定性原理が
目の前に立ちふさがっているんだから
じぶんの位置が決まるってことは
じぶんの運動量はまるでわからなくなるんだよ
反論としては不確定性原理の及ぶ範囲は
あまりにも微々たるものだから
マクロの世界に影響を与えない っていうのはある
でもそれって地球上にいるかぎり
相対性原理の影響を受けない っていうのと
同じようなもんだよね
実際のところ理論としての相対性原理は
実生活に応用されているし
理論としての量子力学も
実用分野に落とし込まれているんだから
あきらかにマクロの世界にも
影響を与えているみたいなんだ
不確定性原理の拘束
ぼくたちマクロの世界の住人が
実際に量子力学の理論を実用分野に落とし込んでいるとしても
そこには自ずから限界があるんだよね
目の前の物の その位置と運動量が確立でしかわからない
なんてことは現実には無いと思わない?
少なくともぼくの目には
位置と運動量(なんとなく)は
分かるような気がするんだけど
もっと小さな原子で考えてみようか
電子が原子核の周りを回っているとするよ
(この表現は正しくないらしいけど)
電子と原子核はクーロン力と遠心力で
一定の大きさにとどまっている ってことになっている
原子の大きさが決まっているってことだね
電子の速度が上がり過ぎれば
遠心力でどこかへ飛んでってしまう
不確定性原理の中での
Δvという速度の不確定さには限界があるってこと
と同時に Δxである位置の不確定さにも
限界があるってことだね
Δvは絶対 原子核の電荷が電子を繋ぎとめて置ける速度
そして原子核に落下をしない速度
この間の中での不確定でしかありえない(はず)
ある意味エネルギー障壁内でしか物体は存在できない
その程度の不確定ってことじゃないかな
だからマクロの世界の物質に
不確定性原理をあてはめる必要が無いという
理屈にも一理あるような気がするけどね
もっとも トンネル効果なんて
訳の分からないものも出てくるから
困ったことになっちゃうんだけど
解釈問題の解釈
ここからはいつものようにぼくの独断と偏見だよ
量子というか世界(宇宙)は
なんらかの関数で構成されているとするよ
ミクロの世界ではそれは波動関数という関数で
説明がついたってことだね
波動関数そのものがマクロの世界や超マクロの世界の
関数まで表しているのかどうかは
これからのお楽しみってことにしておこう
宇宙は関数である
では 人間は?
宇宙の中で人間だけが別種の存在だ って
どうなんだろう
たしかにぼくたちは人間だし
この訳のわからない物理現象たちに
挑戦してきたのも人間だから
人間が世の中(宇宙)の中心 って考えは
仕方がないかもしれない
だけど人間なんてそこまですごいものなのだろうか
人間という言い方はおかしいかもしれない
人類とはそこまですごいのか? のほうが
正確な言い方かもしれない
量子力学で問題になっているのは
観測すれば量子は粒子として存在しちゃう ってこと
波動関数自体は(今のところ ミクロの世界では)
正しいんじゃないか ってことになっている
だから 観測とは何か? が問題なんだ
では 観測とはだれの観測なのか?
建前としては人類の観測ってことだよね
だけど 少なくともぼくは量子を観測したことが無い
科学者たち それも一部の科学者たちが
観測したとする現象を
人類の観測した現実として
認識しているだけじゃないかな
存在(宇宙でも何でもいいけど)を
もしくは存在の一部を
それも一部の人類が観測したからと言って
そのことが事実と言い切れるのか
そこのところは問題だよね
極端にいえばある人の観測したものと
他の人の観測したものが
異なっているという可能性だって
あるかもしれないのに
シュレティンガーの猫や
ウィグナーの友人なんていうはなしが
いつのまにか確率解釈を擁護する方向に
(もっともウィグナーの方はもともと擁護派だけど)
なっちゃっているけど
もっと簡単な解決方法があるよね
人類が観測するという
人間至上主義を捨てて
個が観測するって考えたらいいんじゃないかな
各個人がそれぞれ観測する
当然それぞれの観測値は違ってくる
その違う結果ごとに存在(宇宙)は分岐していく
そう考えれば
猫が死んでいる状態と生きている状態の
重ね合わせの存在 なんて
訳の分からないことが起きないんじゃないかな
存在(宇宙)は波動関数で表せられる
関数の結論はあくまでもランダム
そしてその結論は観測されることによって
はじめて明らかになる
ただし そこには種々の観測結果が出てくるはず
(なんといっても確率で結論が出てくるんだから)
だから観測者によって観測される種々の結論に従って
存在(宇宙)は分岐していく
なんて多世界解釈の妄言解釈でしかないけど
今のところぼくにはしっくりくるんだけどな
余談
「私が見ていなくても月は確かにある」
アインシュタインさんの言葉だね
個々の観測によって
存在(宇宙)が分岐していくとなると
月の無い世界線っていうのがあるのだろうか
あくまでも想像だけど
現存する人間の中で
今現在月を見てはいなくても
月の存在を観測した人がいないとは思えないんだよね
もっともこの世界は
ぼくの「月を観測したことがある」という
世界線なんだから
当たり前と言えば当たり前
だけどもう少し狭い範囲で考えれば
同じ世界線でも違う観測は起きるみたい
以前の量子論の時にも書いたけど
哲学で経験論っていうのがある
物事っていうのは知覚によって得られる
観念の結合・一致・不一致・背反で
知識というものが形成されるってやつ
その継承者のバークリーさんがだした命題
だれにも知覚されない森の中で
木が倒れたとしよう
知覚されないってことは
だれにも倒れた音も聞こえず
だれも倒れている木を見ていない って状態だね
その木は実際のところ
倒れているのか 倒れていないのか という頓智話みたいな命題
だけどこのはなし
わりあい真剣に議論されたらしいよ
哲学でも もっと狭義な経験論の中でも
色々な主張がされている
客観的事象が主観とは隔絶されて存在しているのか
客観的事象なんてもともと無くて主観的事象がすべてなのか
この辺りの意見統一は難しいみたいだね
バークリーさんの主張は
存在とは認知があって初めて成り立つ
ってことらしいんだ
この『認知』を『観測』に置き換えたら
量子力学に似ていると思わないかな
物理学に占める数学の割合が
大きくなればなるほど
物理学は哲学に近づいていく
なんといっても哲学は言葉で考える学問
そして数学は(ぼく流の解釈では)言語の一つ
仕方が無いのかもしれない

