セカンドのジレンマ
――認識できないものに弱いセカンドが
『意』の行き先 すなわち意の消滅を恐怖するのは
あたりまえだ
おまえらが死から派生する幽霊や
それに付随する心霊現象・怪奇現象などにも
恐怖を覚えるのも同じこと
理解できないからだ
仮説は立てられても実証できないからさ――
そんなことはわかっている
だけど少し違うようにも思える
幼いころは死というものを
怖がっていたかもしれない
だが この歳になると
死の直前に迎えるかもしれない
苦痛の方が恐ろしくなっている
要するに 死よりもその直前の生の方が怖いってわけだ
――セカンドの不安の根源的な部分は同じさ
認識できない
それだけなんだから
ただ そこから派生しているにもかかわらず
一番大きな不安をもたらすものは
その認識できない事象よりも
そこに至ったとき己がどうなるのかという
自己の存在に対するもの
明日の我が身ってやつだ
そこは考えたところでどうしようもない
なるようにしかならないのさ――
慰めにもならない言葉ではある
なるようにしかならない
その通りだが
できるのにしないと
できないからしないとでは
大きな違いがある
――おまえが言う言葉にできない真実が
あるはずだって気持ちはわかる
そして どこかにそれはあるのだろう
だがな それを見極めるのは
おまえ自身がその現場にたどり着けた時だけさ
たとえこの宇宙の中のことを
全て知り尽くしたとしても
そこには到達できない
それだけは覚えておいてくれ
そして その真実を知ることが
おまえらの言う幸せというものかどうかは
大いに疑問でもあることは当然わかってるよな
幸せなどとあえて言うことでもないが
心地よいか悪いかだ
どうせなら心地よいほうが良くはないか?
肉体の寿命の極端に短いおまえらが切望する
より多くの知識というものが
心地よいかどうかもう一度考えたほうがいい――
心地よいか悪いか?
そりゃ心地よいほうがいいに決まっている
だけど それでも知りたいという欲求が
止まるわけじゃない
『明日を知ることは死を知ることだ』
上等じゃないか
どうせ死ぬならわかって死にたい
そう思うのはわたしだけか?
軽くまとめてみよう
『散歩』のメモをひっくり返して
びっくりしちゃったんだ
よくこれだけ根気よく
メモしたもんだってね
この セカンド・ファーストについて
書かれたところだけでも
ずいぶんな量になっているもの
全体で見ると
たぶんこの部分は
半分にも満たなかったと思うんだけど
やはりぼくが
一番引っかかったってところで
メモの中でも大半は占めているんだけどね
ぼくの思考の散歩としては
ここが一番の基礎なんだと思うよ
長々書いちゃったけど
簡単にまとめてみよう
人間っていうのはたしかに
『セカンド』と呼ばれる
意のくみ上げ装置の最終形
最終形ではあるけど他の生物との違いは?
って聞かれると
ただそのくみ上げる意の量が
多いか少ないかの違いだけってことだね
人間が特別なものだと思っちゃうのは
個体に余分な量の意が内包されていることと
中身と側の存続時間が違い過ぎるってこと
数字なんてものは
実際の研究・観測データが無ければ
何の意味もないけど
人間に内包されている意が
自然開放するのには
3000年くらいの時間がかかるらしい
それに引き換え
人間の寿命は多く見積もっても150年
そりゃ余分な考えなんてものが
人間に沸き起こっても仕方が無いわけだ
セカンドまとめ
もうひとつ
これも意が詰め込まれ過ぎた結果
かもしれないけど
人間が手に入れた能力に
(持たされてしまった かも)
「知覚できないものを認識する」能力
っていうのがあるらしい
哲学でも量子力学でも
たぶん古典力学にもあるかもしれないんだけど
認識できるものは
実存するっていうのがあるんだ
これは実存しないものは認識できない
っていうことの裏返しなんだけど
どんなに非常識なものでも
実際に観測されたものに対しては
一応は「」付きで認めるってことだよね
この能力
ある意味とてつもなく
恐ろしい能力でもあるんだ
アニメなんかに出てくる超能力の中でも
上位に入りそうだね
だから アニメなんかでは
能力に制限を付けることで
なんとかその能力を
物語の中に組み入れているんだけど
もし制限が無ければ
チート過ぎて物語にもならない能力だと思うよ
人間に 果たしてその能力が
あるのかどうかは知らないけど
想像力や推測能力
なんてものを考えると
あながち完全否定できそうもないね
だから 『散歩』では
能力制限がかかっているってことになっている
物理力に特化することが
大事なんだっていう
進化の刷り込みってものだね
『物理力』というと
ケンカに強いとか
強力な武器を持っている
なんて考えるけど
この物理力という設定にも制限がついている
周りと共通認識の現実の中での
物理力ってこと
個人の妄想や
想像を働かせることは自由だけど
その妄想や想像が
他者との関連性の中で
是とされるか否かが必要
そういう制約が 実際の意味での
物理力特化っていう
意味なんだと思うんだよ
少しの疑問
セカンドっていうのは無意味な存在
ようするに
ただの排水装置のように
必要に迫られただけの部品にしか過ぎない
ってことを長々述べているわけだね
人間っていうのは
言葉やはっきりとした像では捉えきれないけど
真実ってものが
理解できているんじゃないのかって
『散歩』の中の『わたし』はエオに問いかけている
その答えが
――おまえが言う言葉にできない真実が
あるはずだって気持ちはわかる
そして どこかにそれはあるのだろう
だがな それを見極めるのは
おまえ自身がその現場にたどり着けた時だけさ
たとえこの宇宙の中のことを
全て知り尽くしたとしても
そこには到達できない――
なんだよね
相対論の中でも出て来た概念だけど
ぼくたちが『宇宙』と呼んでいるものは
理論上は空間軸(x軸としよう)の正方向
時間軸(y軸だね)の正方向
そして光の速度という
時間単位を距離単位に変換した
ミンコフスキー時空座標で考えると
原点(0)から右斜め上45°の
斜線の下という
全体座標の1/8でしかない
ってことになっている
その1/8の空間でさえ
今のところなんとか
わかっている(つもり)のものは
10%にも満たないんだよね
そうなると
ぼくのたどり着ける場所は
どんなに頑張っても
ぼくたちの認識できる範囲の宇宙の
1/8でしかないわけだ
たしかにそう考えると
真実ってものには到達できそうにないね