なんとなく目的論

メメント・モリ散歩の途中
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時間の切り取り

いつまでたっても本筋に話がいかない

ような気がする。

眼前のおとこの話しが下手過ぎるのか

わたしの理解力が無さすぎるのか

それともはなしがあまりにも現実離れしているのか。

――どうだ、ついて来れてるか?――

ついていけるわけがない。

それでもまだ立ち去ろうとしないのはなぜだろう?

退屈のせいにするのはそろそろ限界なんだが。

――まあ、わからんのは無理もない。

なんといってもまだ話をするための

前提条件を話しているだけだからな。

それでも聞こうとしてるんだ。

やはりおまえは『鍵』を持っているってことなのさ――

また『鍵』か。

『鍵』ってなんなのだろう?

――『目的論』って聞いたことがあるか? 

自然の諸事物には意図があるってやつだ。

セカンドの集団生活にはかかせないものらしい。

おまえらの間でもそれが神の意図って言い換えられたり

理性や社会常識なんてところへもっていかれてるだろうが――

『目的論』ってのは聞いたことがある。

たしかすべてのことは目的によって決められてるとかなんとか

そんな話だったんじゃないかな。

――ただ道具の進化が進むほどそれを否定する考えが増えてくる。

いわく『目的論など無い』ってな。

神羅万象の流れは何処かへ向かうためではなく

流れていった先になにかがあるんだって

いたってまともなはなしが主流になってくる――

どちらかと言えば

わたしもそっちの意見を支持したい。

――だがそのどちらにしても

どの位置でどのスパンで物事を捉えるかだけの違いなんだ。

そりゃおもいきり長いスパンで考えれば目的論なんてない

そういうもんさ。

ただ、長いってのもどのぐらいの時間をみるかだけどな――

そりゃそうだ。

今日どうやって生き延びるかと

10年後どうなっていたいか。

これだけでも方法論は変わってくる。

ましてや億の単位の時間になったら……

――この宇宙を考えてみな。

たかだか227億年の寿命だ。

おまえにとってそれが長いか短いかは別にして

そこに登場する『時』『空』そして『意』ってやつに

なにかの目的があるって考えてもおかしくはないだろう――

227億年が短いわけがない。

ただ宇宙やなんかの話しに出てくると

短いと言われてもそんなもんかと思えるのは不思議だ。

――だけどおれたち限られた寿命を持つものにとっちゃ

227億年はけっして短い時間じゃあない。

たかだか数百年、短いものでは数舜の寿命しかもたないおまえたち生命が

その目的を知ることができるなんてありえないだろう。

おれにしたってたかが90億年程度しか存在していない。

とてもじゃないが全体像がみえるわけがない――

目的はあるのかないのか

けっきょくエオって人物は

なにを言いたかったのだろうって

悩むところなんだよね。

短期決戦の勝負事やスポーツなんてものは

あきらかに目的をもって

行われている。

その短期の結果を出すために

そこまで積み重ねられていく『努力』ってやつも

考えてみれば短い時間の中ってことに

なるのかもしれない。

そしてそれがその人の一生の中での

目的になるのかどうかっていうのは

また別問題。

もっともここで書かれている

『目的論』ってものと

今書いている目的っていうものは違うけど

この言葉を聞くとどうしても考えてしまうところはあるんだ。

短期の目的

中期の目的

長期の目的

これってみんな違うところにあるんじゃないのかな。

「勝負は下駄をはくまでわからない」

って言葉があるじゃない。

でもその後に

「下駄をはくときはいつなんだろう?」

ってつながりそうな気がする。

「誰にでも栄光の時代があった。

だが栄光は栄光を必要とする時代だからこそ意味がある。

それを重く見るか軽く見るかはそれ以後の生き方を決定する」

光瀬さんの小説に出てくる言葉だけど

いまこの年齢(終末間際だって思っておいて)になると

すごく重たく響いちゃうんだよね。

ぼくには栄光の時代が

無くて良かったって。

本当にね。

目的論

またいつものように脱線しちゃった。

はなしを戻そう。

短い時間の中では

『目的論』っていうものが成立する。

なんとなくわかるような気もするね。

というより目的に従って

ものごとが動けるのは

すごく短い間だけじゃないのかな。

そのすごく短い間が幾つもつながって

もうすこし長い時間になり

そのもうすこし長い時間がつながって

より以上の長い時間になって……

そうして有限の中での

無限長へとつながっていく

その有限の中での無限長には

目的論が通用するのかもしれないけど

その流れの中には終わりが訪れないんだよ。

だから結局目的には届かない。

そしてその有限の中での無限長の

どの部分で物事を判断するのか?

ってことで世の中は

良いの悪いのって決めつけちゃうんだろうね。

今ある結果は歴史が判断してくれるなんて

したり顔で言う人もいるけど

その判断された時代も

いつかはまた未来の時点では歴史になっちゃうんだ。

そうなると判断されるのって

いつのはなしなんだろう。

現状を探究する人たちも

自然科学者たちのように

「今のところは」って言葉を入れながら

理論を組み立てたほうが

いいと思うけどな。

ちょっとだけ言い訳

はやく雑学に戻りたいんだけどな。

量子力学の『不確定性原理』を書くために

相対性理論へ

そこから量子力学へ戻っていくと

こんどは『素粒子』なんてものが

出てきちゃった。

またこれがおもしろいんだ。

だからもうしばらくは

雑学に戻れないんだよね。

で、この「散歩の途中」も

ここからやっとおもしろくなっていくから

困ったもんだ。

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