勢力争いⅡ

メメント・モリ散歩の途中
スポンサーリンク

開拓者

――内骨格の彼らは

両生類からの派生だとは思われるが

両生類たちとは違って明らかに

はじめから陸上生活者としての

形質を持って誕生していた。

昆虫類の強靭さも両生類の巨大さも持ち得なかった

弱者として生まれてきたかれらが生き延びる道は

ひたすら逃げることと隠れることしかなかったわけだ――

あたらしいニッチも

けっして楽園というわけではなかっただろう。

ただ『種』としての希望はあっただろう。

けっして『個』としての希望があったわけでは

なかったであろうが。

――索敵能力とスピードに

磨きがかけられる。

そして狡猾さとに。

ニッチが新たに出来なければ

そう生存圏が広がらなければ

もっというなら最悪のシナリオがおきて

生存圏がより狭まれば絶滅は時間の問題だったはずだ――

後から見ればどうとでも理屈は付けられる。

進化の末にどの種が勝ち残ったのか

これも未来にならなければ

わかることじゃない。

だが、少なくともその時代に生きた

弱者に位置付けられた個にとって

悲惨な時代だったことには

まちがいはない。

――逃げてばかりでは勝てないのは当然

逃げきれていなければ

昆虫類か両生類のどちらかからの進化形が

セカンドへと進む道を歩んだことだろう――

セカンドを生み出すということが必然ならば

この時代の温暖化もまた

必然だとしか言いようがない。

『因果』に法則があるのかないのか

そして『神』なんてものが

存在するのかどうか。

誰にもわかるもんじゃないのが

辛いところだ。

――だが現実には温暖化が様相を変えた。

あえて闘争に時間をかけるより

新天地へ広がっていくほうが

はるかに労力が少なくてすむ。

惑星全体をニッチとする住み分けが急速に進んでいった――

先駆者

『先駆者の道はけわしい。

彼らは常に困難とたたかわなければならないばかりでなく

そのたたかいが

表面的にはまったく評価されずにおわることを

覚悟していなければならないからである』

ぼくの好きな『光瀬龍』さんの

『宇宙年代記』の中の一節だけど

これって哀しいけど

事実だと思うな。

時代に先行した事象じゃなければ

先駆者とはなりえない。

だけど時代に先行しすぎると

周りがついてこれないんだから

こまったもんだ。

現代なら特許なんてものが

先駆者をある程度までは守ってくれるのかもしれないけど

システムなんて所詮建前の世界

なんといっても勝者にしか

正義は無いんだから

先駆者が覇者になるなんてことは

めったにないんだろうね。

この時代でも広がったニッチに

一番に出ていったのは

逆に言えばそれまでの生活圏で

いちばん虐げられていた弱者ってことになる。

考えてみればかれらが新天地を謳歌できたのは

一瞬だったんだろうとおもうよ。

それでも先陣を切って

あたらしい世界に踏み込んでいった

個体たちには称賛の念しかないよね。

そうした個体がいて

それに続いてその仲間の種が。

けっしてかれらは

歴史上にその名前を残しはしないだろうけど

虐げられて仕方なくだったかもしれないし

好奇心が恐怖に優先したのかもしれないけど

理由はどうあれ

今となっては消えてしまったとはいえ

かれらの足跡って

感慨深いものがあるように思うのは

ぼくだけなんだろうかな。

個と集団 そして歴史

マイブームってことばが

一時期流行ったんだけど

覚えているかな?

世の中のブームとは無関係に

じぶんの中でだけ

もしくは一部の人々の間だけで

流行っていく思考の流れ。

どうもいまのところ

ぼくの中でのマイブームが

全体と個ってところにあるようなんだ。

もともとそんなことがベースとしてあったんだけど

このところ特に強くなったような気がする。

どうやら年齢を重ねて

死ってものが身近になって来たからかもしれないね。

ぼくにとってのぼくってものと

社会の中でのぼくってもの。

考えたところで仕方のないことだけど

どうしても考えてしまうんだよな。

だからいつものことで

ちょっと脱線。

昔にこの『散歩の途中』を読んでいた時に

この進化云々あたりは

軽く読み飛ばしていたし

この競争原理に基づいて

歴史(人類史だけじゃなくて地球史もね)の

流れが動いていくのも

当然のことだって思っていた。

じっさい当然のことでもあるんだけどね

ふと読み返してみると

その進化もしくは変化の途中にいた

個体っていうのは

どんな気持ちだったんだろうかって

思えてくるんだよ。

これって人類史だって同じじゃないかな。

歴史や物語の中に

いろいろな時代が出てくるけどさ

スポットが当たっているのは

それこそ主人公にあたる人々と

その人たちに絡むほんの一握りの人だけ。

これってどうなんだろう?

戦国時代の戦いの真っただ中の

ある一人の農民のおはなしなんて

おもしろくもないだろうし

それこそ隣の家の猫が子供を産んだくらいの

ニュースネタにしかならないだろうけど

たしかにその時代にその個人はいたんだよ。

その心に悲しみがあったのか喜びがあったのか

怒りがあったのか諦めがあったのかはしらないけど

間違いなくそこには

個があったんだ。

話がまとまらなくなってきたけど

こんなことを考えるようになったのは

単純に年を経たってことなのかもしれないね。

タイトルとURLをコピーしました