セカンドの特異性 Ⅱ

散歩の途中
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セカンドの悲劇もしくは喜劇

――セカンドは薄々ではあるが

己の存在は ただの水汲みバケツでしかない

とわかっている

それでも なお 

なにか違う役割があるはずだとあせるのだ

生きていくことに汲々としているものたちは

そこまで考える暇はない

だが なにかの拍子で

余裕が出来てしまうと

ついそこに考えがいっちまう――

自分が水汲みバケツだと

感じたことは無い

だけど 人間

特に個々の人間には

何ほどの意味が無いんじゃないんだろうかと

考えたことは確かにある

――おまえも知っていると思うが

宗教の粗には

大金持ちや貴族出が多いのは

そういうことだ

自分が食うに困らなくなると

他に目が向くだけのはなしさ

人はただ生きるだけでなく

なにか崇高な使命感があるはずだ

そう思えるためには

少なくとも今日明日は食っていけるという条件が

必要だからな――

そうかもしれない

わたしの根底にある宗教と言えば『仏教』

始祖の『釈迦(シッタータ)』さんは王族の出だし 

イスラム教の『ムハンマド』さんは

名門の一族で商売人

その上玉の輿に乗った後で

預言者として名を成していたはず

難しいのはキリスト教の『イエス』さんだけど 

イエスさん自身がキリスト教の開祖というよりも

どうやら神輿として

担がれていたんじゃないかって説もある

かれらのことは納得しよう

だけど大金持ちでも貴族ででもない

どちらかといえば

ワーキングプア―に分類されるわたしが

かれらと同じ土俵で語られることは

どんなものだろう?

たしかに明日・明後日の

食事の心配はしてはいないが

――『人』というのはなんだ? 

ドタバタと動き回っている肉体が『人』なのか

その中で感じたり考えたりしてる

目に見えないものが『人』なのか? 

単純にいえば

入れ物が主か中味が主かということだ

結論から言えば

二つが合わさってはじめて『人』だ

だが これはあきらかに矛盾した存在

色と意が合体して

はじめて成立することになるんだからな――

エオの言葉が正しいとしよう

そうであるのなら

これだけ必要に人間に対する矛盾を説くとうことには

何か意味があるのかもしれない

――意は観測装置

観測装置が自分の意志をもってどうする? 

ましてや観測するものとされるものが

一体になるなんて考えただけでもおかしいだろう――

――もう一度『人』というものを考えてみろ

その持っている肉体の変化の状況を

意は観測している

もちろん肉体の変化というものは

時の流れでもあるわけだ

だから 色と時の観測機関としては正しい――

――もうひとつ

その持つ肉体の感覚機関で感知する

外部情報も記録していく

記録されていくことで

時も色も存在を成立させる

だからそれもあるべき姿だ

その情報の記録の仕方が

痛いだの辛いだの暑いだの寒いだの

嬉しいだの悲しいだのという記号になっているだけで

別にどうということはない

ただの記録だ――

感情が観測記録? 

では だれがそのデータを読み取るのだろう

数字で示されたデータなら

わたしたちにも読み取れるし

不確定さのないデータとなるだろう

だが アバウトな感情なんてものが

データとして有効なのだろうか

――問題なのは

おまえらがセカンドに位置しているということ

セカンド=知覚できないものを認識する能力を持つもの

自分の担当している肉体と

その感覚器官から入手した情報だけ観測していればいいものを

それ以外のことも知ろうとしてしまう

そして そこに意味を見出そうとする――

観測記録

感情が観測記録という部分には

この対話集の『わたし』が

結構引っかかっているみたいなんだ

だから その部分については

結構長い問答が書かれている

そのまま書いていこうかと思ったんだけど

あまりにも長いし

同じことが繰り返されているんだよな

だから まとめて

要約だけを書いてみることにしよう

もっともぼくが今書いている

『――』付の文章だって

メモの要約という

本体とは遠くにいる文には違いないんだけどね

前提として人間(生物)というものは

意の詰まった器(瓶でもいいよ)だってこと

身体が滅びるっていうのは

(死ぬってことだね)

水(意)の入った容器が

壊れるようなものってこと

生物学の時に書いていた

生物を潜水艦(ロケットとか車)に

例えたのと似たような考えなんだろうと思うんだ

死ぬってことは

瓶が壊れるようなもんだってことは

当然中身はあふれるってことだね

そうして 多く溜まり過ぎた『意』を

制限時間内に解放(蒸発でもいいかも)

させようってことみたい

液体を詰め込んだ瓶が生物だとすると 

人間(生物)っていうものにとって

意が主か色が主かって疑問は難しい問題になっちゃう

意は計測器だということになっているよね

計測するってことは

計測器が作動する対象が必要になるじゃない

だから観測という部分だけで考えれば

『色』が主ってことになっちゃう

だけど 観測したものを

データ化するってことは

意が記録しなくちゃならない

それが『考え』や『感情』になるわけだけど

そういった記録するという部分で考えれば

『意』が主ってことになっちゃうんだよね

思考・感情

肉体が主か精神が主か

これは昔から議論されている問題なんだ

哲学でも生物学でも出て来たと思うよ

ただ 肉体っていうのは

たかだか100年くらいで消滅しちゃうんだから

気になるのは精神の方だよね

主体を精神と捉えるってことは

『考え』や『感情』というデータ記録の方を

重視するってこと

『考える』なんてものは突き詰めていけば

それこそ脳の反応とか遺伝子

その他の肉体に依存する部分が

多くなってくるかもしれない

潜水艦の自動制御装置なんかも明らかに肉体依存だもの

『感情』も もちろん

脳や遺伝子なんかの影響を受けるだろうけど

『漠然とした』とか『言葉に尽くせない』

あたりの感覚はもしかしたら

精神に関連しているのかもしれない って 

これは希望的観測だし

もう少し研究が進めば

全部科学的に解明されるかもしれないけど

『散歩』の中の『わたし』が気にかけているのも

人間の精神がただのデータ記録でしかないのならば

なぜ感情なんてものがあるのか

ってことみたいなんだ

たしかに 記録紙に羅列された数字やグラフ線と

喜・怒・哀・楽なんかを同列に並べられるのって

なにか違和感があるよね

それに対するエオの解答の部分は

ぼくがまとめるより次回に書く

メモからの書き写しを読んだほうがいいかもしれない

ぼく自身 納得できるような できないような

回答だけど

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