じゃあ、生きてみようか

メメント・モリ自問自答
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     生きるってなに?

死ぬってことに

なんとなくもやもやしたものを感じるってことは

同時に生きるってなに?

ってことになっちゃうんじゃないかな。

自殺した人に

なぜ死んだのか、なぜ生き続けられなかったのか

って聞いてごらん。

逆になぜあなたは生きつづけられるのか

って問い返されるから。

死のこわさが、じぶんが消えることがこわいということなら

いいかえれば今のじぶんに満足しているってことになるじゃない。

でも、ほんとうにそうなのかな?

日々楽しいことがある?

この歳になると日々同じような繰り返し

幸せや不幸せなんてわざわざ考えたこともない。

もしも変化があったとしても、どちらかといえば不愉快なことが多いような気がする。

どこを快・不快のラインにするのかによって

とらえかたは変わってくるだろうけど

生きていくってことはどちらかといえば

マイナス要素のほうが強いような気がするな。

貪り食う動物の喜びと今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。

世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。

って 、ショーペンハウアー先生も言っている。

それなのになぜ死にたくないなんて思うんだろう。

それなのになぜ生きたいと願うんだろう。

人類という種として、というか生き物としてなら

わからないではない。

色欲・食欲・睡欲、三大本能

種を存続させて、じぶんを生き延びさせるための『欲』

これは生き物としてとうぜんだよね。

でもそれって子孫を残すために最適な年齢

(男女とも35歳までが理想っていわれているけど)

まで生にしがみつくのは理解できるってことだけじゃない。

じゃあ、おまけの寿命はなんのためにあるのかな?

他人の人生なんてわかるわけないけど

はなしだけ聞くと多くのひとが間違っても

充実した日々を送っているとはいいがたいようにおもうんだけどな。

どちらかといえば退屈と苦痛

それに耐えながらしぶしぶ日々を送っているという感じ。

先に大きな希望があるのならわからなくもないが

どうやらそうでもないらしい。

これはどういうことなんだろう

『生』ってやつはいったいなんだろう?

生きる理由はないが、また、死ぬ理由もない。

人生は、苦労して捨てるほどの価値もない。

って、昔の人も悩んでたんだろうな

     わたし

種として、生物として意味を持たなくなっても

生き続けたい。

この時点で人類と人(わたし)ってのは

違う存在なんじゃないかなっておもえるんだけど。

『わたし』ってのはなにを指すのか

こいつが大事なんじゃないかな。

社会の中での『わたし』ってのと

じぶんが認識している『わたし』ってのは

そうとう違うような気がするのはぼくだけなんだろうか。

文にしてみると、『わたし』の大安売り 

笑いばなしみたいだけどこれってけっこうむずかしい問題。

どうやらいろんな意見の違いってのは

このあたりからでてきているみたいだとおもうんだ。

たとえば『国民』

国民の総意・・・、なんていっても

べつになんとも思っていない人は多い。

国民は怒ってます・・・

って別に怒ってないけど

国民すべてが感謝してます・・・

してないよな。

会社でも、組織でもおなじ。

社員の総意、って反対しているひとだっている

愛社精神、すべてを会社のためにって人もいれば

金のためにじぶんを切り売りしている人もいるはず。

組織・会社・国

どれも似たようなものだよね。

人が集まってしまえば個は消失

人間の肉体を構成する細胞みたいなものになってしまう。

人間で考えればわかるかもしれない。

頭もあれば手や足も、内蔵もあるだろう

盲腸なんていらなさそうな臓器もあるし

爪や髪の毛もある。

それだけはっきりした形のある存在ならまだいいよね。

それらを形作る細胞みたいなもの

順次壊れていって次のあたらしい細胞といれかわる

ひとりひとりの人間なんて組織の中では

それぐらいの価値しかないんじゃないのかな。

でも、その途中で朽ちていく細胞ひとつひとつに

意志があったらどう思うのだろう。

組織(国家でもいいけど)のために朽ちていくことに喜びを感じるのか

いやだ~ と叫びながら無念の涙を流すのか。

社会の中での『わたし』なんてのは細胞の一つみたいなものだろうね。

社会全体から見ればほとんど意味がない。

それでも自己ってものを持っている・・・

困ったもんだ。

たぶんぼくなら、いやだ~ と叫びながら

無念の涙を流すんだろうなぁ。

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