足元を固めたいね
はっきり言ってすでに老人予備軍
(とは思っているけど、他者からみれば完全に老人かもしれないな)
体力・外見は時と共に移り変わっていく
精神のほうはどうやらどこかで止まっているみたいだけどね。
これだけ無駄に生きてきて
いまだに中二病がぬけないって言われても
返すことばが無い。
せっかく大人になったんだから
すこしはましな考えを浮かべてみたい
とは思うものの、考えようにも知識がなさすぎるんだよね。
おなじところをぐるぐると
ハツカネズミの回し車みたいなもの。
先に進みたいと思っても
どこかで足場をみつけないことにはすすめないんだよな。
間違っていたところでどうせ世間に害が及ぶようなことじゃないんだし
それこそ人生はまぼろし
適当でいいと思うんだけど。
帰納・演繹なんて言葉は聞いたことがある
ものごとを考える方法ってやつだね。
でも、ことばを知っていることと内容を知っていることは
まるで別のもの
仮に内容が分かっていたとしても、考える足場ってものがないことには
使いようもないじゃない。
ロジカルシンキングの手法のベテランだって
情報のないところから結論を導き出せって
そんなのは無理に決まっている。
もっとも情報があっても手におえるような命題じゃないんだとおもうよ。
だから根拠の正確性にこだわる必要は無いってことにしようじゃないか。
嗜好を数値化しようなんてのとおなじこと
食べてうまいもんはうまい、それだけでいいんじゃないのかな。
それでもなんとなく説明できれば
そしてひとりでも納得させられれば
カッコいいと思うのは、ただの見栄かもね。
インターネット
1993年てのはひとつの転換点かもしれない。
NCSA Mozaic開発。
それ以前からインターネット・プロトコル・スイートによる
コンピュータの情報相互共有はあったけど
それ以降のネットの利便性ってのはすごいの一言。
ちょっとカッコを付けて
むずかしそうな言葉をつかっちゃったけど
いいかげんなたとえで言うなら
インターネット・プロトコル・スイートってのは
個々のコンピュータたちの間の通訳さんみたいなものかな。
そこに画像とテキストをまとめて表示できる
NCSA Mozaicってのが開発されたってことだね。
画像とテキストがまとめて表示なんて
今じゃあたりまえだけど
このおかげで今みたいにネットワークの中に
膨大な情報が出回ることになったんだ。
おかげでぼくみたいな一般人が
ほぼ自由に情報の大河に踏み込めることができるんだよな。
もっともそこにあるのが必ずしも
真実・事実なのか錯誤・虚偽なのかは不明だし
玉石混交、さがしだすのはたいへんな作業なんだけどね。
もともとマスメディアの流す情報だって
似たようなものなんだからどうってことはないと思うよ。
自分に都合のいい情報を都合のいいように集めることができる
ぼくみたいに少々偏った考えにも応援してくれる知識が与えられるって
やはりネットの威力ってすごいよね。
世のなかはひろい
変な知識ってのは意外とあるんだ。
これなら足場を探すことも
できるんじゃないかな。
足元探しの旅
さあ、調べてみよう。
どうせ人生、死ぬまでの暇つぶし
だれかに発表するわけじゃなし
科学的根拠なんてものもいらない
ただの暇つぶし。
ネットサーフィンは金のかからない最高の娯楽かもしれない。
では、なにを調べたいのか?
そこのところがつかめないと検索もできないよね。
なぜ死ぬのがこわいのか?
ってことは、なぜ生きているのか?
ってことに繋がる。
なぜ生きているのか
ってことは、生きるとはなにか?
に・・・
生きるとは生物としての生命なのか?
個人としてのじんせいなのか?
ぼくが気にしているのは個人としての人生なんだよな。
その意味と生き方 死に方の持つ意味ってやつ。
でもそれを考えるためには根本的な
生命を考えなくっちゃいけなくなる
命とは生物とは・・・
そうなってくればもうひとつかぶさってくる疑問
そう、宇宙とはなんだ!
って、壮大になってくるね。
さて問題。
どこから手を付けるにしても
じぶんの立ち位置を決めておかなきゃわからなくなる。
もちろん間違ってたってかまわないんだ
立っている場所さえぶれなきゃなんとかなるだろう。
だれに迷惑をかけるわけでもないし
間違っていたらじぶんが笑うだけのことなんだからさ。
天動説より地動説のほうが納得しやすい
ってのはぼくだけかな?
円高、円安って言われるけど
ドル120円とドル100円だったら
100円のほうが安いように思っちゃわない?
だから足場を求めるところから始めてみようとおもうんだ。
そこからどこへ行こうと頭の中の散歩だから
許してもらえるってことにしようよ。
でもせめて踏み出すんだ
すこしは根拠のありそうなものにしたい
って、ぜいたくかな?