散歩の途中 前提

散歩の途中
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宇宙(世界)

貼り直しをしてみたけどやはりわかりにくいな

事実とされている『仮定』と

まるで根拠のない『仮定』が

混じり合って書かれている文章

それをどう捉えるかは読み手の勝手ってことだね

『陰謀論』にしたって事実かもしれないし

完全にフェイクだったり

意図的に流された嘘なのかも

しれないんだから

さて この宇宙はビッグ・バンによって誕生した

ってことになっている

今のところの研究・観測では

138億年ほど過去のことらしいんだ

ビッグ・バンについては

またいつか雑学のところで書いてみるけど

その時点からこの宇宙は

始まったってことにしておこう

では 宇宙っていうのはなんだろう? 

ぼくたちにすれば

宇宙=世界ってことでいいと思うんだ

いうなれば

ぼくたちの感知(認識)し得る

世界ってことだね

たしかに 未だ未知の部分は多々あるけど

(というよりわかっている部分の方が少ないんだけど)

ぼくたちが知覚できない(認識できない)モノは

ぼくたちにとって無いのと同じだもの

量子力学でも

認識(観測)して初めてモノは実体化するってことに 

なってたような気がするんだよね

認識

認識っていうのはなんだろう? 

日々進歩する観測機器なんかでは

生身の人間の観測器官じゃ絶対認識できないものまで

認識しちゃう だけどそれを言い出すと

はなしがややこしくなるから

すごく単純なところで考えてみようか

人間って言うのは

視覚が一番多用されるらしいから 

目に見えるかどうかを

基準にしちゃおう

見えるにこだわると

いろいろな突込みが入りそうだから

感じられるかどうか

ってことでもいいかもね

見えるってことは対象が在るってこと

対象っていうのは存在がある

ってことだと思うんだ

そして 人間って言うのは

比較ができなければ対象を認識できないって

ことになっている(らしい)

では 比較するためには どうすればいいのか? 

空間軸上の位置のズレか

時間軸上の時間のズレが

あればいい ってことだね

だけど 位置のズレっていうのは

宇宙(世界)という大きな枠組みで考えたら

空間上では起こらないんじゃないかな

空間の一部を切り取れば

切り取られた部分とそれ以外 という比較ができるけど

全体を包括しちゃえば

比較対象は不可能ってことになっちゃう

だから 対象を認識するためには

時間軸上のズレが必要

ということになるんじゃないのかな

この宇宙(世界)を認識するには

『存在』という対象と

『時間』という対象が必要 そんな気がするんだけど

『色』と『時』

宇宙(世界)に在るものは

『存在』と『時間』

この部分は一応『是』ということで

いいと思うんだよ

そりゃぼくたちに認識できないものや

『何も無い』なんてものがあるかもしれないけど

それも含めて『存在』だとすれば

宇宙は『存在』と『時間』で出来ている

というのは納得できそうだね

その『何も無い』 や

認識できないものも含めて

存在を『色』

一方向にしか進んでいるという認識しかできないけど

始まりから終焉までの時間全般を

『時』という名称で

「散歩の途中」では名付けているんだ

宇宙の果てや宇宙誕生の前は

どうなっているんだっていう考察は

無意味ってことだね

ビッグ・バンが起こったとされる138億年

より前のことは この宇宙外のこと

宇宙の果てがあったとしても

その外側は同じくこの宇宙とは

無縁ってことなんだ

現宇宙に存在するぼくたちには

けっして認識されないってことだね

――その138億年前になぜか

『色』が膨張をはじめたわけだ――

メモの中のエオの言葉

この部分には

現代の宇宙物理学者たちからは

異論が出ると思うけど

ただ この『仮定』も

異論を形成する『仮定』も

今のところ検証されていないんだから

聞き流すしかないね

ひとまずこの仮定を基礎として

はなしを続けてみよう

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