生と死の境界線
死の瞬間には痛みはないと
断言している人がいるんだ
本人曰く 5000人以上の患者の最後を看取ってきた
お医者さんなんだけどね
彼が言うのには痛みで泣き叫びながら
死んでいった患者さんっていうのは
いなかったらしい
もっとも ぼくはまだ死んだことがないんで
実際のところはわからないけど
死の寸前に泣き叫ばなかったのにしたって
苦痛があっても
泣き叫ぶだけの体力が無かった
そういうことかもしれないからね
ところで 死の直前から生還した人々の中で
囁かれているのが臨死体験ってものなんだ
一見都市伝説みたいに聞こえるけど
まじめに研究されている部門だそうだよ
ちゃんとデータがとられているんだから
その体験を調べてみると
共通項が見つかったってことらしい
もっとも心の安寧とか異音
自分の人生の走馬灯や
神や神秘的な何かに出会ったり それらが迎えに来たり
なんていうものもあるんだけど
どうやらそのあたりは
文化や地域なんかの影響で
種々雑多な話が出ているらしい
ただ そういった地域・時代の刷り込みの少ない
子供でも共通の要素っていうのがあるみたい
体外離脱
魂が肉体から離脱して
外部から自分の身体を観察している状態だね
トンネル
トンネルのような
筒状の中を通っていくらしいよ
光
人によって表現が違うみたいだけど
神や神秘な生命みたいに光として認識される
生命体に出会うんだそうだ
臨死体験っていかがなものか
どのような解釈をしようとも
実証の仕様の無いものだから
ただの戯言ってことでいいのかもしれない
ただ 自分の肉体から魂が離れていって
(体外離脱だね
ただし この場合の本体は魂側にあるってことになる)
その後どこかへ続く通路を
(トンネルみたいらしいよ)
通っていくと
その先には光が
(花園だったり神だったり親しい人々の時もあるみたい)
満ちているってことを
死の直前まで行った人の多くが
語っているってことでいいんじゃないのかな
なんといっても
死の直前まで行くってことは
その時点で意識がはっきりしていないと思うし
もし意識や観察眼が正常だったとしても
生き返っているってことは
死んだわけじゃないもんね
じっさいの『死』という状態のことが
わかっているとは思えないんだ
だから 今回の臨死体験の書き込みは
ほとんど意味が無いって結論で
いいことにしておこう
ただ 今までぼくが書いてきた
『生・死』の概念とは接点が無いんだけど
臨死体験を調べていて
出て来た人の話を
少し長いけど書いておこうとは思うんだよね
この人
名前はマシュー・オライリーさん
ニューヨーク サフォークで
救急救命士をしている人
あるプレゼンの中での語りがなかなか素敵なんだ
マシュー・オライリー
私はここ7年間
ニューヨーク州サフォーク郡で
救命士として働いています
交通事故からハリケーン・サンディに至るまで
私は数々の事件で救急救命をしてきました
もし みなさんが普通の人なら
死というものは最大の恐怖のひとつでしょう
中には 死が近づいてくるのが
見える人もいます
まったく気づかない人もいます
「差し迫った悲運」という
あまり知られていない医療用語があります
それはほとんど症状のようなものです
医療従事者として
私は他の症状と同じように
この症状に対応するように訓練を受けています
だから 心臓発作を起こしている患者が私に向かい
「私は今日死ぬんだ」と言えば
私は患者の状態を再診断するように訓練されています
私はこのキャリアを通して
患者が後数分しか余命がなく
手の施しようがないような事故に
たくさん対応してきました
このような時私はジレンマに直面します
彼らにすぐに死ぬだろうと伝えるべきか
それとも安心させるために嘘をつくべきか?
初めの頃は
嘘をつくことで単純にこのジレンマに対応しました
私は怖かったのです
もし真実を伝えたら
その人が恐怖を感じながら
人生の最後の瞬間にしがみつこうとしながら
死んでいくのではないかと私は恐れていました
しかし それはある事件で変わりました
5年前私はバイク事故に対応しました
運転手は本当にひどい重篤な怪我をしていました
彼の怪我を診断すると
彼のためにできることは何もないとわかりました
そして他のケースと同様
彼は私の目を見てあの質問をしました
「私は死ぬの?」
その瞬間
私はいつもと違う対応をすることにしたのです
私は彼に真実を伝えることにしたのです
私は彼に
「あなたはすぐに死にます
そして私にできることは何もありません」
と伝えることにしたのです
彼の反応は驚くべきものでした
彼の目を見ると彼の中に安らぎが見えました
彼はただ横になり
それを受け入れた表情を見せたのです
その瞬間から私は死にゆく人を私の嘘で安心させるのは
私の仕事ではないと考えたのです
それ以来
患者が瀕死の状態で私たちにできることは何もない
という状態の多くの事故に対応しましたが
たいていの場合彼らは真実に対して
同じ反応をしました
安らぎと受け入れです
実際にはこれらの状態のとき
私は3つのパターンを見つけました
一つ目は いつも私を驚かせます
宗教や文化的背景に関係なく
許しを請うという願望がありました
それを罪と呼ぶとしても
ただ単純に後悔と呼ぶとしても
罪の意識というものは世界共通です
私は一度
心臓発作をおこしているお年寄りの男性の
対処をしたことがあります
今にも起こる心停止に備え私が準備をしているとき
私は彼に差し迫っている死を伝えました
彼は私の声のトーン ボディ・ランゲージから
すでにそれを悟っていました
これから起こることに備え
私が彼の胸に除細動器のパッドを置いたとき
彼は私の目を見て言いました
「自分の時間に自分勝手にならず
子どもたちや孫たちと
もっとたくさんの時間を過ごせばよかった」
差し迫る死に直面し
彼が欲したものは許しだったのです
二つ目のパターンは記憶への願望です
それが私の記憶の中でも
彼らの愛した人の記憶の中であったとしても
彼らは生き続けるのだと感じたいのです
愛した人 私 私の同僚 周りにいる誰であっても
その人の心の中 頭の中では
永遠なのだと感じたいのです
数えられないほどの患者が私の目を見て言いました
「私を覚えていてくれる?」
最後のパターンはいつも私の魂に触れるものです
死にゆく人は
自分の人生に意味があったのだと知りたいのです
彼らは
自分の人生を意味のないことのために無駄に費やしはしなかった
ということを知りたいのです
これは私が
仕事を始めたばかりのときに起こりました
私は呼び出しに応答しました
50代後半の女性が車に挟まれ
ひどい状態でした
彼女は高速の車に真横から突っ込まれ
非常に重篤な状態でした
消防が彼女を車から救出しようとする中
私は車によじ登り彼女の手当てを始めました
彼女と話していると 彼女は
「人生でやりたいことがもっとたくさんあった」
と言いました
彼女はこの世に生きた証を残せていないと
感じていたのです
私たちが話を続けるうち彼女は
2人の養子を迎えた母であることがわかりました
その2人は医学部を目指していました
彼女のおかげで2人の子どもたちは
養子にならなければ得られなかったであろうチャンスを手にし
医療分野で医者として命を救う道に進むのです
彼女が車から解放されるのに45分かかりました
しかし彼女は解放される前に亡くなりました
私は映画の中で見たものが真実だと信じていました
人生最後の瞬間は
恐怖に満ちたものになるのだと信じていたのです
しかし私の出した結論は
どのような状況であろうと一般的に死の瞬間は
安らぎと受け入れることで満ちているのです
そして最後の瞬間に安らぎを与えてくれるものは
些細なこと
ある一瞬にあなたがこの世界にもたらした
小さなことなのです