『時』『空』そして『意』

メメント・モリ散歩の途中
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『在る』と『存在』

――『空』と『時』はお互いが無いと在ることができないってことはわかったかい?

では『空』と『時』はなぜ在るのか? って問題だ。 

なんのことはない消えるためなのさ。

時は拡散し続けることによって

空は収縮し続けることによって消滅しようとしているんだ。

消滅するためには存在しなけりゃならないなんて矛盾だけどな――

消える?

消えるってのはどういう意味なんだ?

無くなるのも消滅するのも変転してしまうのも

消えると言や消えるってことだろうけど

どんな状態を指すんだろう?

やはり口をはさむのはやめておいたほうがいいようだ。

どこかに罠がある。

でも、わたしに罠を仕掛けても意味は無さそうなんだがな。

――『存在』と『在る』ってえのは違うんだが

その違いってのがわかるかい? 

在るってえのはそのままただ在るだけなのさ。

だから、空も時もお互いが無いと在ることができない

同時に消滅へ向かうためには存在することが必要になってくるんだ。

在るってことを認識するものが必要になってくるのさ――

何度でも言っておこう。

けっして楽しんでこのわけのわからない話を聞いていたとは

思わないでもらいたい。

では、なぜ聞いていたのか?

今でもよくわかってはいない。

――『在る』

時が流れている

空が在る

そのことを認識するものが無いと時も空も『存在』できない

その認識するためだけに存在するものが

別にあるってことだな――

たしかに存在するってのと在るってのは違うかもしれない。

こじつければアニメと漫画の一コマの違いってところか。

――認識するためだけの存在

ある意味計測器のようなものがあるんだ。

むずかしく考えることは無い

おまえらにあるわかるように言えば

心とか魂とか霊とか

そういったもんだと思ってくれてもいいぜ。

おれたちは『意』って呼んでるけどな――

どうもこのあたりにエオの話しの

本質があるのかもしれない。

とは思うものの正体は見えてこないが。

――魂や心なんていっても

おまえたちみたいにいろいろ考えたりしてるやつが必要ってわけじゃない。

単純なセンサーみたいな計測器さえあればいいんだからな――

そりゃそうだろう

ようするに物が動いていることが分かればいいわけだ。

風が吹いているのを知ろうとするのなら

風速計で十分。

風速計もいらないだろう

布切れ一枚、葉っぱ一枚で事足りる。

――この世界を構成しているのは時と空だ。

時と空がこの世界って舞台の主役ってことには変わりはない。

ただ『意』という観客がいなくっちゃ芝居が成り立たないってことさ――

――するとどうなるか。

『時』は『空』と『意』がなければ存在できない。

『空』は『時』と『意』がなければ存在できない。

『意』は『時』と『色』がなければ存在意義がない。

っていう困ったことになるんだ。

もっとも『意』はただの観客

芝居が終わるまで見ているだけの存在なんだけどな――

三つ巴の宇宙ドラマ。

じつはこのあたりからすこし興味を惹かれだしたのは

確かだったかもしれない。

『宇宙』

壮大もしくは大ぼらには

人を魅了する力があるのだから。

――もちろん意も消滅を目指す。

砂時計を考えればいい

砂がなくなっていくことで時間を計る

そんなもんだ――

これはもう少し話を聞いてみても

いいかもしれない。

そう思ったのは確か。

やはり疲れていたのか退屈していたのだろう。

自然科学

このあたりになってはじめてぼくも

真剣にこの書き込みを

読みだしたんじゃなかったかな。

今振り返ってメモを読み直してみれば

このあたりになってはじめて

荒唐無稽の書き込みが少しはまともらしい話に

なってきたような気がするんだ。

このどことなく曖昧な話って

ある意味物理学の概念と似てくる

って思ってしまうのは

ぼくの思い込みかな?

もしくはやはりこの書き込みに

じぶんが思っている以上に

影響を受けているかだね。

今、ハイゼンベルグさんの

不確定性原理を書くために

どうやら必要となりそうな

相対性理論ってものを調べてみているんだけど

(はっきりいってぼくの能力じゃ届きそうにないけど)

物理学の定義に

「『物理学』とは『人間が認識しうる自然現象を説明する学問』である」

っていうのがあるらしい。

では、認識できない自然現象はどうするのか。

現状認識できる現象から推論していくしかないよね。

その推論が現状とうまくリンクする間は

一つの正しい仮説とみなされていく。

そうやって自然科学ってものは

発展してきたらしいんだ。

「今のところは正しい」という考えかた。

つねに検証していくという姿勢。

やはり科学者って人種は

すごいと思うな。

じぶんのたてた理論が否定されたり

欠陥を指摘されることを

喜ぶなんてことは

すくなくともぼくには無い感覚。

むかし『スタッフ細胞』が世間の話題になった時

ぼくみたいな門外漢は

科学者がそんないい加減なことをしていいの?

ってなんとなく批判的に見ていたけど

(マスコミさんの誘導もあったみたいだけどね)

ぼくのまわりの研究者の人たちは

そういった一つの論理が

批判というものでさえ

脚光を浴びるのはいいことだ

なぜならそのおかげでその研究が進むから。

そう言っていたものね。

かれらにとっては間違っているという結論も

ひとつのゴールらしいんだよな。

ってまた脱線しているね。

『時』『空』『意』

この時と空の関係性って

ある意味相対性理論の

『四元物理量』の概念と似ているかもしれない。

まだ勉強の途中だから

ちゃんとは書けないけど

宇宙ってものは時と空間を併せて

はじめて存在しているってのはわかる。

時と空が消滅を目指すっていうのは

ひょっとしたら『ブラックホール』あたりの概念かな?

だとすると『消える』って考えかたは

消滅ではなくて変遷

そう『ホワイトホール』のような考えかたなのかもしれない。

虚数空間につながって

また実数空間に戻っていく

その繰り返しがこの宇宙だとすると

なんとなく全体像は納得できるかもしれないね。

ただ、ではその変転していく宇宙の観測者だと言われる

『意』ってものはなにものなのか?

そこのところがこの『散歩の途中』という書き込みに

ぼくが惹かれていった原因なんじゃないかな。

だいぶ前に書いたけど

ぼくの根本的疑問。

じぶんってなんだろうか?

死ってなに?

じぶんの意志ってものを

外部からいじられたくないという

わがままな願い。

そのあたりが知りたいっていうのは

おかしくないと思うんだけ……

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