時・色・意

メメント・モリ散歩の途中

  時・色・意

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     時と色

―――この世界、時と色で構成されている

知覚できる、できないの差はあるが

ある、ないを含めて在るものが色。

変化のない色は在るとはいえない

動いて初めて色は在ることができる。

すなわち色が在るためには時の流れが必要

時が流れるためには色が在ることが必要。

ではなぜ時と色は存在するのか?

消滅するために存在し続けざるを得ないのだーーー

どうやらこのサイトの書き手は仏教が好きなんじゃないのかな。

物のことを『色』なんて呼ぶところなんか

般若心経の『色即是空』を思いだしちゃうもの。

星の寿命の56億7000万年だって弥勒菩薩の修行年数だしね。

それでも『色』ってのは良い呼び名かもしれない。

物って書いちゃうとなにかがなくっちゃいけない気がしない?

無いものも総称して『色』とすれば空間全てを表現できちゃう。

時と色のふたつが絡み合いながら宇宙空間を紡ぎあげていく。

なんか壮大な抒情詩みたいでかっこいい。

そしてその向かう先には壮絶な最後が・・・

壮大な抒情詩から壮大な悲劇へ

これは絶対に見逃せない。

なんてちょっと夢見すぎかな。

そして抒情詩が成立するためには

観客が必要とされるのはとうぜんだよね。

どんな壮大なドラマでも観るものがいなくっちゃ

始まらないもの。

この世界は時と空が主演の壮大なドラマ

でもその壮大なドラマが成立するためには

もうひとつの要素がいるって書かれている。

そう、ドラマを作るには必要がないけど

ドラマを成立させるためには不可欠な観客という要素。

宇宙の構成要素の三つ目。

その名は『意』。

     意 

―――時も色もその存在を消滅させるために在る。

意はただの観客、測定装置と言い換えてもよい。

おのれをくしけずることによって計測していく。

徐々に消滅していく意はどこへいくのか?

砂時計を考えればいい。

われわれに見えているのは砂時計の上の部分だけ

全体を見ているものには上にあった砂粒がただ下に落下するだけのこと

だが、上しか見えていないものにとっては徐々に消滅しているようにしか見えない。

堕ちていく先になにがあるのか?

死後の世界や天国を仮想するのは自由だ

実際は上から下に移動しているだけにすぎない。

砂時計は移動することによって計測する。

意はセンサー、観測機能を果たすために移動する。

ただ、われわれには消滅するように見えるだけだーーー

一部抜粋だとはじめて読む人にはわかりにくいよな。

全部を読んだぼくでもなんとなくわかったような気でいるだけだもの。

どうやら『意』ってやつは宇宙全体に広がって時と色のドラマを

見ているらしい。

見ているっていうのか観測・記録しているんだよ

って、ことらしいんだ。

わかったような、わからないような・・・

なにより、時とか色(時間と物でもいいけど)なら

なんとなく想像ができるけど

意なんて見たことも、聞いたことも、感じたこともないものを

実感しろって方がむりがあるよね。

だけどこの『時』・『色』・『意』という三要素を押さえておかないと

ここからのはなしがまるでわからなくなる

ってことらしいんだ。

ぼくもいちおう押さえたつもりなんだけど結局なにもわかってないような気が・・・

まっ いいか

どうせ学術研究じゃないんだし

どうせ正確に物事が伝わるなんてことはないんだから

適当に解釈したらいいんだとおもうよ。

ということで

もうすこし『意』ってやつの部分を書いてみよう

 

     『在る』と『存在』

―――在るものは認識されて初めて存在する

時も色もお互いがないと在ることができない

と同時に、消滅へ向かうためには存在することが必要とされる。

在ることを認識するもの

在るを存在するに至らしめるもの

『意』の存在理由はそこにしかないーーー

認識ってのを、知るってことにすればわかる気がするかも。

見えないものは無いってのと同じ

感じられないものは無かったことにする。

日常でぼくがいつもやっていることだからね。

しらないところで、いくら悪口を言われたって

気にもならないし

(告げ口する奴さえいなければ・・・)

他人の痛みだったらどれほどの激痛にでも耐えられるじゃない。

でも認識されないものだって「ある」には違いないんだけどな。

それとも「ない」んだろうか?

「在る」と「存在」?

どこが違うんだろう?

こういう言葉の捉え方ってむずかしい

分かった気になるのはとてもかんたんだけど

本当に理解しているのかどうかときかれたら

首を傾げることになるもんな。

これを言い出したらきりがない

時や色が消滅に向かってまっしぐらってのだって

消滅ってのが「無い」状態なのか

それとも「認識されない」状態なのか。

わからないことは保留にしておこう

こまかいことをいちいち考えるのは学者先生に任せて

ぼくみたいなそこらあたりに転がっている

普通の人間は、なんとなくわかったような気になっていれば

いいんだから。

そう、この『意』ってのがじつはぼくがずっと気にしている

『わたし』ってものの一端らしいんだよ。

     時・色・意のありよう

その前に『時』・『色』・『意』の

ありようについて書かれている部分を

抜粋しておこう

―――同じ宇宙を構成する要素でありながら

『時』と『色』ではその性質が違う。

なにより異なる部分はその在りようだろう。

『時』は極力均一に広がろうとし『色』は歪に収斂していく。

宇宙の中の色に密度の濃い・薄いの部分が存在するのはそのためである。

もう一つ、意はより以上に歪な分布をとる。

全宇宙にその存在は分布してはいるが

色の収斂しているところにはそれ以上に意も収斂する傾向があるーーー

これはイメージとしてなんとなく想像がつきそうだね。

規則正しく、静かに時間がながれていく。

時間のつむぎだす粛々とした舞台

広大な、な~んにもない宇宙空間に

星々が点在している。

ロマンティックな宇宙図の出来上がり

これぞ宇宙って感じ。

『色』も均等に広がっていたら

なんとも味気ない宇宙図ができあがってしまうじゃない。

ぜんたいにぼんやりとした濃厚スープのなかで

溺れているみたいって、様にならないよね。

だけど問題は『意』ってやつ

せっかくのロマンティックな宇宙図のなかに

どこか不協和音のように

組み込めるところが見つけにくい。

もっとも不協和音だったり、異物感であったり

そんな観測のかなう相手じゃないし

なんといってもただの観客

壮大なドラマには出演してないんだから

気にすることはないのかもしれない。

考えてみたら

『時』だって観測できるもんじゃないんだよな。

ぼくたちに観測できるのは『色』だけ

時間なんて色の動きから推測しているだけで

じっさいに感じることなんてできないのかもしれない。

だから『意』にしたって

観測できると思う方がおかしいのかもしれないね。

でも・・・

時みたいに『色』の動きから

観測することができるのかなぁ?

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