意と色
――『おまえは今どこにいる?』と訊かれたときに
思いつく場所は
自分の肉体の位置じゃないか?
今なにをしている?
調子はどう? でもいい
自分イコール自分の身体のことだろう
ほとんどの生物が
肉体と意を切り離して捉えていることはない――
自分
たしかに自分自身としてイメージできるのは
肉体の部分でしかない
恋愛ごっこなんかでよく言われる
『外観』じゃなく
『内面』を見て欲しいなんて言葉が
あまりにも滑っていることに
ほとんどの人間は気づいているはずだ
――ただ セカンドとして発生したものたちは
他の生命と比べて
あまりにも多くの意が詰め込まれて誕生してしまう
生存競争や物理的勝敗という
刷り込みをしていたにもかかわらず
肉体と意を切り離して
考えるものが出てくるときがある
知覚できないものを認識する能力のなせるわざってことだ――
わたしもそのうちに入るかもしれない
自分自身のことを考えるときには
肉体とじぶんのことを切り離して
考えているときがあることは事実
もっとも自分の肉体を
客観的に評価するなんて考えてみれば
気持ち悪いことのような気がする
――セカンドは 効率重視で
少しばかり意を詰め込まれすぎている
そしてその量に比して
入れ物の存続時間が少なすぎる
おまえらが発生するというのは
時間内に自然開放ができないからだ
そう むりやり意の開放を促すため
だから当然
だが おまえらにとっちゃ
迷惑だろうな
おまえらの肉体の寿命が尽きるとき
肉体の経年劣化が進んで容器がもたなくなっても
まだ内部にある意は
一定量以上残っている
そいつがいろいろわけのわからないことを
考える原因になってるのさ――
――考えたところで結論の出ない問題
これほどむなしいもんは無いぜ
知覚できないものを認識する能力は
あらゆる可能性を導き出す
だが 哀しいことに
セカンドには進化の刷り込みが行われている
現実に実証できないものを
完全に信用することができないという
刷り込みが
せっかく気休めにあれこれ考えたところで
本質の部分では納得しやしない
だから
生や死というものにこだわってしまうのさ――
現実に実証できないものを
信用することができないとは
言い得て妙かもしれない
『信用』は過去の事例に対して
『信頼』は未来の行為に対してなされる
というくらいだから
現実に結果の現れたもの以外が
信用に値することは絶対にない
――不老不死などを望むのがその典型
その不老不死にしたところで
考えてるのはせいぜい千年二千年の話だろう
それ以上あまり考えてはいないはずなんだ
肉体の存続と意の存続のギャップを埋めたい
というところから
死に対する不安が生じるとするならば
意の存続可能期間数千年を超えた不老不死なんて
考えられるわけがないんだから――
不老不死?
私自身考えたことは無いが
不老不死伝説が
多く残されているのは知っている
あまりに長い時を生き続ける悲惨さが
メインだったような気はするが
不老不死
不老不死を
手に入れたいという願望は
けっこう昔からあるみたいだね
一応 現代で残されている文献(?)としては
ギルガメッシュ叙事詩が
最古じゃないかな
楔形文字で粘土版に書いてあった
この叙事詩が発見されたっていうことは
パピルスや羊皮紙が使われる以前から
あったってことかもしれない
今のところこの物語は
紀元前2000年ごろには
あったんじゃないかとされているから
メソポタミア文明の時代
すでに人は不老不死を考えていたんだね
もっと有名なところでは
始皇帝(紀元前300年くらいかな)さんなんかは
練丹術なんてものを研究させて
無理やり薬を作りあげたらしいよ
そのおかげで死んじゃったって
笑い話のようなオチも
言い伝えられているし
もちろん 神話の世界では
神々が不老不死なのは
当たり前のように出てくるけど
純粋な人類としての人で
(人と神の混血じゃない)
不老不死を手に入れたっていうのは
あまり聞かないね
人魚の肉を食べたって言われる
八尾比丘尼さんだって
言い伝えでは
800年ぐらいしか生きていなかった
みたいだもの
一度真剣に不老不死のことを
考えたこともあるんだ
まだかわいかった頃
(ぼくにもかわいかった子供の頃があるんだよ)
まだ ヒーローにあこがれていたころだけど
たしかにその時でも
数百年を生き続けるイメージしか
なかったように思うな
人間 地位や名誉を手に入れちゃうと
次に望むのが永遠の若さだそうだ
永遠の若さってことは
不老不死に通じるんだろうね
だから 地位も名誉もないぼくが
本気で不老不死を求めるってことは
無いのかもしれない
でも 考えてみて
永遠に生きているってことは
すごく孤独なんだと思うんだ
少々考えかたや価値観
外観が変わったとしても
人間が生きている間はいいよね
でも 人類が滅んだ後に
一個体の人間として生きているって
悲劇じゃないかな
手塚さんの火の鳥にもあるけど
地球の絶対者が『ナメクジ』になっている時代を
生きるっていうのは
ゾッとしないと思うけど
『ぼく』っていうのは身体か心か
ぼくたちが
訳の分からないことで悩んだり
死ぬことを怖がったり
生きる意味を探し求めるのは
単純に身体の部分と心の部分の耐用年数が
違い過ぎるからっていうのは
一理あるかもしれないね
でも じっさい 『ぼく』というのは
(私でも自分でもなんでもいいけど一人称のことだよ)
心の部分なのか 身体の部分なのかって
難しい問題だよ
社会生活をしている時に考える『自分』っていうのは
身体の部分だと思うんだ
外観だけってことじゃないけど
『行動』ってものが
個体認証になっているように思える
ハイデカーさん流にいえば
『存在者』ってものが
人間だという定義は
間違っていないように思うよ
だから 人間っていうのは
身体(行動も含めた)以外の
何物でもないと言い切っても
問題ないように思うんだ
では
『心』というのはなんなのだろう?
心・魂・精神
いろいろな呼び方はされるけど
その正体が明かされたことは無いんだと思うね
宗教(特にキリスト教)なんかで
魂=神の領域という考え方がある
プラトンさんから流れる哲学にも
世界(神)=精神という見方をしている
発想があるよね
『散歩』的に考えてみようか
『世界』は時と色で構成されている
そして 時と色を存在させるために
意があるってことだよね
人間の魂やら精神って部分は
『意』に当たるように思えるんだ
もちろん身体っていうのは
『色』だよね
と 考えると
ぼくたちが自分のことを考えるのに
『色』(身体)と思うってことは
少しおかしくなってくる
考えている自分っていうのは
あくまでも『意』のはずなんだ
だから主体は
『意』に在りそうな気がするんだけどな
ただ 問題はこの『考える』という作業
脳の仕組みがどうなっているのか
ぼくにはまるで未知だけど
(いつかまた調べないといけないことが増えちゃった)
勝手な思い込みだと
脳の機能はあくまでも
電子回路ってイメージなんだよね
その電子回路ではじき出された
それこそ0・1のランダム記号が
『考える』ってことになっちゃうと
『考える』ってことも
『色』(身体)の管轄になっちゃうのかな