セカンド

散歩の途中
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意の濃淡

意はこの世界すべてに存在している 

ってことになっている

なにもないように思える宇宙空間にも

色が充満しているのと同じように

だから宇宙空間に散らばっている星々にだけ

意があるってことじゃないらしいんだ

まえに『ウィグナーの友人』の時 書いたけど 

人間なら観測できるのか? 

猫だと観測できないのか? 

観測機なら? 

ラジウムなら? 

っていう問題提起の『散歩』的回答なら

ラジウムでも観測できるよってことになるんだろうね

意は生物・無生物に関係なく

色(世界)のあるところには

存在しているってことらしい

ただ色の密度が高いところには

どうしても意の密度も

高くなっちゃうってことだね

そして 意は超わがままな存在 

だから困ったことが起きちゃうんだ

――ほとんどの星では

小屋に見合った数の観客がいるはずなんだ

だが何を間違ったか

たまにギュウギュウ詰めに

観客が溢れているところが

出来てしまう場合がある

観客が多かろうと少なからろうと

上映時間は約57億年だ

時間が限られているから

観客の多いところは

そうとう無理をしなくっちゃならない――

意は計測器ってことになっている

エオの例えだと

砂時計みたいなものだそうだ

溜まっている砂がなくなっていくことによって

時と色を観測しているってことだね

星の寿命は56億7000万年

その約57億年の間に

すべての意が消滅することが必要とされるってこと

ところが 

意が必要以上に集まってしまった場合には

その消滅を早める何等かな手段が

必要になってくるんだね

生物

生物とはなんだろう? 

地球だと

目に見えるもの見えないものを含めて

いたるところに生命は満ちているよね

ぼくたちは それが当たり前

だと思っているけど

宇宙の他の惑星を考えた時

ぼくたちの当たり前は通用するんだろうか?

地球は特殊な環境だったため

生命の誕生が許されたっていう説もあるけど

これって現在に存在している生命形態から

逆算して地球の環境の特殊性を

述べているだけだよね

じっさい 

地球型の生命以外の生命形態があったとしても

おかしくは無いもの

ただ ぼくたち人間には

その生命形態を生命として

認識できるかどうかは疑問だけど

『散歩』では

生命は特別なものだという捉え方は

されていないんだ

意が多く集まり過ぎた星では

その寿命(約57億年だね)の間に

すべての意を消滅させるために

必要に駆られて生物という排水道具を

(スプーンとかバケツなんて書かれているけど)

生み出しちゃうってことなんだ

多く溜まり過ぎた水たまりの水を

一生懸命掻い出すために使われる

道具ってことだね

水たまりの水を放っておくと

乾くのに時間がかかるじゃない

溜まった水を搔き出して

周りにばらまけば

乾く時間が短縮できるってことだね

進化

生物・生命が

排水装置だとしようよ

イメージとして

生物と無生物の間くらいの生命が

スプーンみたいなものだと考えよう

水たまりがそれほど大きくなければ

スプーンで ちまちま掻い出すだけでも

ある程度は自然乾燥より

早く乾かせそうだね

だけど 水たまりが

大きすぎるとそうはいかない

スプーンで何回水を汲み出しても

ほとんど水位に変化はなさそうじゃない

スプーンじゃ小さすぎる

だったらもっと大きなバケツで

汲み出そうよってなっちゃう

それでも追いつかなければ

より効率の良い排水装置を考えよう

これって当然の帰結だね

そこで 最終兵器として登場してくるのが

『セカンド』と言われる生命形態

難しく考えなくてもいいみたいだよ

ぼくたち人間みたいなものってことらしいから

以前に書きかけていた『散歩』では

進化の末にセカンドが出てくる直前で

とぎれちゃったんだね

だから 今回は

メモの中で残った部分を

ぼくの記憶と照らし合わせて

書き出してみるつもりなんだ

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