『意』の歪な分布
歪な分布のところをもう少し抜粋しよう
―――通常 星といわれる空の集合体には
開放時間(56億7000万年)内で自然解放するだけの意が付随する
だが 意の性質上それ以上の量が集まることが多々起きることは否めない
過剰に内包された意を開放時間内に放出するためには
なんらかの排水装置が必要とされる
イメージとしては容器で溜まった水を掻い出すと思えばいい
余剰の量によって容器の大きさが変わる
その容器のことを生物と呼ぶ―――
いよいよ身近なところにやってきたね
宇宙だと頭がついていかないけど 生き物だとなんとか……
なるのかな?
もっともここに書かれている生き物って
ぼくの考える動物や植物だけに限定されているわけじゃないみたい
目に見えない微生物 細菌やウィルス
もっと極端に言えば無機的生命ってのも含まれているらしいんだ
―――生物の本質とは持続する組織とエネルギー流のパターン
それを有した時点で『意』を内包した『色』は生物と称される―――
ってことだそうだ
まあ そんなこまかいことは気にせずに生き物とは
多すぎる『意』を『色』の殻でくるんで取り出したものだって思っておけばいい
だからぼくらだって 対外的には色の身体が『わたし』だけど
本人にとっては内部の心が『わたし』ってことになるんだろうからね
じぶんの思いとじぶんの行動 他人から見たぼくの思いと行動
それらがマッチしないからストレスが溜まるのかもしれない
このごろ思うんだけど 人間なんて車に乗っているみたいなものじゃないのかな
運転手が心で 動いているのが身体
そう考えるとなんとなく世の中がわかるような……
気がする だけだけどね
セカンドとは
猫にしても 犬にしても 草木だって 微生物だって
もっといえば 生物か無生物かわからないものだって生き物にはいるかもしれない
じゃあ 人間ってやつも生き物ってひとくくりになっちゃうんだろうか?
犬や猫と同列ってのは なんとなく納得できるかもしれないけど
ミジンコとだっておんなじだよ って言われたら
首を傾げたくなるのは ぼくだけかな
人ってなんだろう?
―――生物によって過剰な『意』を掻い出す
そのことによって時間制約を解消することは多々起こる
ただ あまりにも多くの意が内包された星の場合
汲み出すための容器はより大きくなる必要がある
『意』の総量が増えれば増えるほど
とてつもなく効率の良い排水手段が必要とされるからだ
そのための最終手段
存在として可能なぎりぎりの大きさの容器が選択されることがある
最大の容器
『セカンド』と呼ばれる生き物最終形が誕生する場合が起こり得る―――
そう どうやら人類ってのは排水装置の最終形らしい
超特大コップ もしくは大型バケツ それが人間の正体
う~ん あんまり自慢できそうな感じじゃないね
最終形にしても 超特大にしても バケツはバケツ
そんなに深い意味を持つ存在じゃなさそうだもの
なんか 納得できないな
もうすこし高尚な 目的とか使命とかがあってもよさそうだと思うけど
たしかに 広大な宇宙から見れば人間なんてちっぽけな存在
地球にしたって 太陽系にしたって米粒ほどの価値もないかもしれないけど
ぼく個人にとってはかけがいのない存在なんだよね
せめて最高級のガラス細工の工芸品扱いはしておいてもらいたい
なんだったらガラスじゃなくてダイアモンドでもいいけど
もっとも容器の部分は『色』で本体の『わたし』とは関係ないといえばそれまでだけど
『セカンド』の記述はまだまだ続く……
セカンドの定義
セカンドという生物はなぜ生物最終形なのか?
それにもちゃんとした理由があるみたいだ
その前にセカンドの定義を抜粋
―――セカンドとはなにか。
本質は単純に効率の良い排水装置でしかない
星の開放時間の制限の中でやむを得ない処置として発生する
だが 高機能の装置にはそれだけのリスクが伴う
規定された容器の中に必要以上の意を詰め込む
これは『意』の暴走を促す恐れがある
過剰に集合した意はそれ単独で意志を持つ可能性があるのだ
意志という言葉は不適当
観測すべき時・空を超える意は
実観測出来えないものにまでその観測対象を広げる可能性を秘める
セカンドの持つ他の生物との違いは
「知覚できないものを認識する能力」を持つことである―――
人類の場合だと自然に意が消滅(自然開放って書いてあるけど)するには
3000年ほどかかるだけの意が詰め込まれているらしいんだ
単純に計測するだけなら3000年分観測できる量の意が
たかだか百数十年しか観測できないとなれば他のものも観測したくなるよね
300キロ出せるスポーツカーに乗っているのに
制限速度が10キロなんて 車がかわいそうじゃない
でも 直接知覚(見たり聞いたり)していないものを観測しようとしたら
なぜ だめなんだろう?
想像力をひろげるっていいことだと思わない?
たぶん「知覚できないものを認識する能力」っていうのは
想像力みたいなものだと思うんだ
夢想・妄想なんでもいいけど
そのなかで現実になっているものもけっこうある
人ってそうして進歩してきたような気がするけどね
その進歩ってやつが幸せなのか不幸なのかはしらないよ
でも それがなくなったら人間なんて他の動物と変わらなくなってしまうと思うけどな
って そうか
人間はセカンドで 他の動物とは違っているから危険だって言われてしまうのかな?
ということは 進歩ってのは危険……
ってことなんだろうか?
セカンドの危険
なぜセカンドは危険視されるのか?
どうも 進歩が問題をおこすわけではないそうだ
なんら具体的な資料は添付されていないけど 以下の項目が記述されている
―――セカンドの時代は3万年ほどしか続かない
進化の刷り込みにより物理力に特化
それに加えて『知覚できないものを認識する能力』
これが合わさって道具というものに特化する
一度開発された道具類は等比級数的な速度で進化するが対して使う方はさして変化しない
結局 自分たちが作り出す物理力が自分たちの制御力を超えてしまう
道具の進化スピードと種としての進化スピードの不一致が
存続年数に制約をあたえることになる―――
だから 進歩というものが脅威というわけではないんだそうだ
進歩すればするほど滅びの道が早くなるだけのこと って
それもぼくらにとっては困ったもんだけど
この書き込みはどうみても人間目線じゃないよね
どこか一歩離れたところから客観的に観測しているようにしかみえないもの
まあ だからぼくみたいなものが魅かれたんだけどさ
では 進歩じゃなければなにが危険なんだろう?
―――セカンドの持つ脅威とは何か
セカンドは実際に知覚しないものまで観測しようとする
多すぎる意の所為かその持つ特殊性なのかはわからないが
「知覚できないものを認識する能力」をセカンドは持つ
意は 時・色を存在させるために観測することが目的
逆説にはなるが 意が観測すれば時・色は存在することになる
その影響にたいする答えは出ていない 実例は今のところ観測されていないからだ
だが この宇宙を根底から覆す可能性も皆無ではない
とは 言えるかもしれない―――
う~ん……
観測すればものができあがる
極端にいえば見えたことにすればそこにものがあるってことか
それと繰り返してでてくる『知覚できないものを認識する能力』
見たことも聞いたことも無いものをイメージできるってことだろうな
たしかにこの二つがくっつくと なんでもできそうだね
セカンド 身体(空)と本体(意)
―――あなたはどこにいるのか? 思いつく場所は自分の肉体の位置
なにをしている? でもいい
自分イコール自分の身体のことを指す場合が多い
生物が肉体と意を切り離して捉えていることはない
だが セカンドの中には肉体と意を切り離して考えるものが出てくるときがある
生きていくことに余裕のできた者
明日生きる糧を心配しなくてもいい者
多くの者は未だに手にしていないものを求め 精神的に満たされるものを探す
だが ほんの一部変わり者が出てくる場合がある
知覚できないものを認識するということは
無限の奥か 無の底を覗きこもうとする欲求でしかない―――
生きていくことに余裕があるっていうのには どことなく抵抗があるけどね
なんといってもワーキングプアー けっして気楽な人生とは思えないだけどな
ただ一つ言えるのは 明日生きている可能性が高くて
明後日も生きている可能性が高いっておもえること
戦争の真っただ中だったり 食料の絶対的不足のただなかにいれば
あしたの保証は無いもんね
老後の心配ができるってのは 余裕があるってことなんだろう
そんな人間だから人って何だろうなんてくだらないことを考えてしまうのは
わからないでもないかも
あまりに余分に詰め込まれすぎた『意』 社会的に安定した生活
通常の生物の日々生きるために精一杯ってところから切り離された人生
それがぼくが中途半端に悩むことの元凶としたら言い返すことができない
でもね 一度考えだしてしまったものはしかたないじゃない
余裕があるからばかなことを考えるんだ
もっと日々を真剣に生きないとだめじゃないか
って言われても 「それがどうした」って返したくなる
だって きっとぼくの悩みってのは大事なことのはずなんだ
ぼく個人にとってはね
それを考えられない人生ってやつのほうがおかしい って
共感は得られないだろうけど
セカンドの矛盾
最後に人間ってものの矛盾するところを引用しておくね
―――『人』というものはなにか? 肉体が『人』なのか?
その中で感じたり考えたりしてる目に見えないものが『人』なのか?
入れ物が主か 中味が主か
結論から言えば二つが合わさってはじめて『人』
だが これはあきらかに矛盾した存在
色と意が合体してはじめて成立することになるのだから
時と色はそれぞれ相手を必要としながらも独立
意は観測するものでしかない
観測装置が自分の意志をもつということ自体ばかげてはいるが
それ以上に観測するものとされるものが一体になることはありえない
もう一度『人』というものを考えてみるといい
その肉体の変化を意は観測する 肉体の変化は時の流れでもある
だから時と色の観測装置としては正しい
もうひとつ 肉体の持つ感覚機関で感知する外部情報も記録していく
記録されていくことで時も色も存在を成立させる
だからそれもあるべき姿
その情報の記録の仕方が痛い・辛い・暑い・寒い・嬉しい・悲しいという
記号になっているだけで別にどうということはない
感情に意味はない ただの記録だ
意に必要とされるのは観測することだけ そこに意味を見出す必要は無い
セカンド 「知覚できないものを認識する能力」を持つものは
そこに意味を見出そうとしてしまう
意味を探そうとする
意味を探そうとすれば観測に歪みを生じさせる可能性が出るし
観測データを捏造することが起こり得る
観測データの捏造 すなわち『意』の観測したものの捏造
そして『意』の観測は『時』『色』の存在 歪んだ宇宙が生まれていく
現時点で その記録は残されていない
しかも 歪んだ宇宙というものが忌避すべきものなのか
それともこの時空間の進化とみなすべきなのか
それについての知識を持ち合わせているものもこの宇宙内には存在しえない
なにより現宇宙が正解であるか という命題を
解きえるものも 存在しないのだから―――