テーゼ・アンチテーゼ
ヘーゲルさんが提唱した弁証法で
テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ
っていうのを紹介したと思うんだ
意見があって
それに反対する意見があって
その対立する意見から
それらを統合できる意見を
求めようってやつ
ものごとの本質には
必ず『矛盾』が含まれている
って考えかただね
その矛盾をぶつけあって なんとか
合意が取れるような結論を
出してみようよ という
苦し紛れの思考法かもしれないけど
そこで出された合意をとれそうな意見も
(ジンテーゼかな)
当然矛盾を含んじゃう
だから またそこで
対立意見をぶつけ合って
高位のジンテーゼを求めていく
そうしていけば
どんどん思考は高まっていって……
ってことなんだけど
果たしてそう うまくいくかどうかは
出された問題次第ってことになるかもしれない
ぼくがやろうとしていることも
この弁証法を
あくまでもじぶんの都合だけで
使っちゃおうってこと
色・時・意の代表として
量子論・相対論・哲学を
少しだけかじってみて
それを再考していくことを繰り返したら
どこか なんとなく納得のいく
結論に達せないかなという
甘い期待を持っているんだけどね
哲学編の中途半端な結論
ひとまず哲学編を読み返してみたんだけど
どうしても中途半端な結論しか
出てこないんだよ
一つの指標として
ハイデカーさんの
『存在』『存在者』『現存在』の考え方が
今のところ一番しっくりする
とは思うんだけど
もっとも
ハイデカーさんが言っている考え方を
(考え方というより『言葉』を借りているだけかも)
ぼく流に曲解した上で だけどね
現存在はもちろんぼくのこと
存在者はぼくの身の回りとか
ぼくがなんとか実感できそうな『モノ』
(人間だけじゃないよ)
存在はもちろん
宇宙も含めてこの世ってものだね
ぼくが知りたいのはなんだろう?
存在者は今の時点では
除外してもいいと思うんだ
では 存在が知りたいのか?
と言われると すこし考えちゃう
存在の指す範囲というのは
どこまでを指すのか という
疑問が出てくるのは当然だもの
存在=宇宙としようよ
ぼくたちが認識できる範囲の宇宙っていうのは
この世のすべてなのか?
そういう問題が出てくるのは
当たり前だよね
これから 観測技術も 理論も
進んでいくだろうけど
存在=人間(ぼく)の認識できるもの
と考えるのか
人間に認識できなくても
存在は存在だって考えるのか
そのあたりで袋小路に迷い込んじゃいそうな
気がするんだけどね
まだまとまらないね
相対論の時に気づいたんだけど
どうやらぼくたちの
認識できる現象って言うのは
ぼくたちの想像の及ぶ範囲でさえも
全体の1/8くらいしかないみたいなんだ
(あくまで物理的宇宙のね)
ミンコフスキーさんの
時空座標って覚えているかな?
ぼくたちのいる世界を
4次元の世界で表現した図表だね
イメージとして
ぼくたちは 3次元の世界の住人のような気がするけど
実際のところ
ぼくたちが認識できるのは
時間経過と共に移り行く3次元空間
ようするに 4次元空間の中を
這いずり回っているだけってことなんだ
(多分だけれど)
だから ぼくたちの世界を表すのには
三次元空間をX軸に
時間に光速を掛けたものをY軸にとる座標が
(ミンコフスキー座標だね)
必要になっちゃう
なおかつ ぼくたちの認識の中では
時間の逆行ができないし
この世界での最高速度が
光速を超えられないという
制約がついてしまう
だから どうしても
このミンコフスキー座標の中でも
Y軸の正方向と
原点を通るX=Yのグラフの範囲しか
認識できないんだよね
ぼくとはなにものか? とか
死とはなんだ? 生きるとは?
人類の認識がどうしても
『存在』そのものを捉えられない
という制約の中で人間は
そして なによりぼくは
生きているんだね
こんな どうあがいても
結論の出そうもないことに挑戦するためには
なにかの基準点 というものを
無理やりにでも作らないと
ぼく自身は 一歩でも
前に足を進めることができなかったんだ
物理学なんかで言う
『仮説』が必要だった ってことだね
もっとも 自然科学での仮説は
莫大な実験・観測に基づくものが
仮説として設定されるけど
そんなものはぼく自身には
当然 なにもないんだよ
その上 人間っていうものの認識能力も
仮に現存在が存在を認識できないとすれば
仮説なんて立てることさえ
不可能になっちゃうんだ
だから 仮説というより推論
それでもカッコの付けすぎかな
妄想とか当てずっぽうを土台にして
ここまで書いてきたわけ
その仮説(妄想)に使っていたのが
『散歩の途中』っていう文章だったんだけど
どうやらぼく自身の散歩の途中メモを
もう一度整理したほうがいいのかも
しれないね
色・時・意にたいして
量子論・相対論・哲学という
ある程度完成されている学問を拾い上げて
そこから弁証法(自己流の)を使って
考察してみよう なんて
意気込んでみたんだけど
でも それだけじゃ
今ある知識の受け売り
ましてや素人がプロの技術の解説をしているなんて
笑い話にもならないと思うな
だから そこに仮説(『散歩の途中』)も
入れておかないと
どうしてもはなしがおかしな方向へ
いっちゃうように思うんだ
その上 なんといってもこの仮説
ぼくにもまだ完全に理解できていない
そんな気がするんだよね
だから
荒唐無稽になるかもしれないけど
残っているメモだけでも
整理してみることにしてみるよ
また 書いている途中で
新しい発見があるかもしれないから