もう一度『存在者』 Ⅰ
存在者ってものが
人間か それとも人間じゃないのか
そういう疑問を書いてみたけど
ハイデカーさん流に言うならば
身近で直接関わりのない人間は
存在者に数えないって言うのが
あったはずなんだ
地球の裏側の
見たことも聞いたこともない
無名の人間の行動なんて
ぼくには何の関係もないじゃない
極端に言えば
遠い国で戦争が起こったとしても
自分に直接影響がなければ
情報として知っているだけで
関係無いと言えば
関係無いのかもしれないんだ
(非難されるのは覚悟の上だけど)
では 存在者っていうのは
どこまでを考慮に入れるんだろう
まず 人間
じっさいに会ったり
すれ違ったりする人間は
存在者でいいんじゃないかな
家族とか学校や会社にいる人間も
入ると思うよ
会ったことは無いけど
よく知っている(つもりの)
有名人はどうだろう
政治家や芸能人やスポーツ選手
そんな人たちは存在者なのかな?
世間一般では有名でなくても
自身には身近に感じられる人は?
接点なんてどこにもないけど
たとえばニュースなんかに
出てくる人はどうだろう?
現代は情報があふれている時代
まるで接点のない人のことまで
わかっちゃうんだから
困ったもんだ
もう一度『存在者』 Ⅱ
生物学で
人間は決して特別なものでなくて
進化の末に行き着いた
動物の一つでしかないっていう
ぼくなりのつたない結論に
行き着いたように思うんだ
(今のところだけどね)
もっと言えば
動物は生物の流れ着いた存在
生物だって
生命を持つものの行き着いた存在
ってことになるように思えるね
そして 悲しいことに
『生命』ってものの定義が
完全には出来ているわけじゃない
と すれば
『生命』は存在の特殊な現れ方
だとしてもおかしくないよね
そう考えると
人間なんてものは
『存在』の様式の
一つにしか過ぎないってことは
十分にあり得るような気がするな
もう一つ
生物学の『環世界』の考え方を
覚えているだろうか
すべての生物は
自分の持つ知覚によってのみ
世界を理解しているってやつだね
だから すべての生物にとって
世界って言うのは
客観的なものじゃなくて
主観で構成された
独自の世界だって考えかた
エクスキュルさんは
種としての違いってことで
この『環世界』概念を
提唱したんだけど
種とか集団で考えずに
この概念を個人に当てはめたら
どうなんだろう
すべての個人は
主観で構成された独自の世界を
生きているってことにならないかな
もう一度『存在者』 Ⅲ
存在ってものはけっして
現存在には理解できない
ということは
ある意味哲学の基本のような気がするんだ
だけど なんとか存在を理解しようと
多くの人が挑戦している というのが
哲学・自然科学の道のりじゃないのかな
少し長い引用になるけど
ぼくの好きなアインシュタインさんが
言い残した言葉を書いてみるね
――人間というのは
宇宙の構造を把握することはできない
それは小さな子どもが
巨大な図書館に入ったようなもの
壁には 床から天井まで
異なった言語で書かれた本で
おおわれている
子どもは
だれかがこれらの本を書いたことはわかる
しかしだれが どうやって書いたかまでは
わからない
それらが書かれた言語も理解できない
しかし子どもは
本の並び方の中に
一定の秩序があることに気がつく
つまり 神秘的な秩序だ
はっきりとわかるわけではないが
おぼろげながら
疑うことはできる――
アインシュタインさんは物理学の人
でもこの言葉は
すべての学問にも当てはまるような
気がするんだ
もちろん 学問だけじゃなくて
ぼくの知的好奇心にも