因果関係
ヒュームさんが言いだした
『因果関係』存在しない説は
ヒュームさんの専売特許って
ことじゃないんだよね
もともと因果っていうのは
仏教の『因・縁・果』から来てる言葉なんだ
英語で言うなら
Causal relationshipかな
原因とその結びつきっていうような
意味だと思うよ
何かがあって
それが絡み合って
次の姿になって行く
という感じだろうね
ぼくの感覚では
やはり因果関係って言ってくれる方が
なじみやすいかな
なじみやすいっていうのは
ぼくも仏教徒の端くれだからかもしれない
だけど 現代に伝わっている仏教は
大乗仏教というか大衆仏教なんだよ
だから 一般人にわかりやすいようにだったり
時の権力者が使いやすいようにってことで
元の形からそうとう変わって来ちゃってるからね
本来の意味からは
そうとうずれているんだろうな
因果関係と聞くとぼくたちは
『善因楽果・悪因苦果』なんて
良いことをすれば楽が来て
悪いことをすれば苦労が待ってるよ
なんて捉え方をしちゃうじゃない
でも どうやら初期の方の仏教の教えでは
原因も結果もすべて同一層のものだって
考えられていたみたいなんだ
たしかに お釈迦さんが直接書き残したとか
お釈迦さんから直接聞いたって文献は無いんだけど
すくなくとも 上座部の方では
そう考えているみたいだよ
なんといっても
仏教の考え方のベースともいえるバラモン教の中に
『因中有果』って言葉が出てくるんだ
この言葉
「すべての事象は原因の中にすでに結果が包含されている」
ってことなんだけど
原因の中に結果が含まれているという考え方は
けっして原因があればそれが結果を生む
ってことじゃないらしい
「原因も結果も所詮は同じもの すべて内包したものが世界」だよ
って意味なんだそうだ
極端な言い方をすれば
この世界は演算子だと主張している
量子論と同じ解釈のような気がするんだけどね
その演算子でも
原因と結果が同時に内包された世界でもいいけど
それを観測する
人間ってものの思い込みで関連性を見つけているだけで
世界が関連性を持って存在しているわけじゃない
ってことだと思うんだよな
うまく説明できないね。
自分ではわかるつもりでいるんだけどね……
個と人の抽象概念
人間っていうのは個の人間か人類か
って 難しい問題だよね
学問として取り扱うためには
人類全体をターゲットにしなけりゃ成立しない
だけど
ぼくの場合は個人の趣味なんだから
全人類のことをターゲットにする必要は
無いと思うんだ
ネットの発達で
世界中の人たちや情報が入ってくるようになっているけど
個人か個の人間か人類か ってところは
分けて考えたほうがいいように思うね
また 横道にそれるけど
ハイデカーさんって人がいる
ドイツ観念論なんて言われる人々に
分類されているけど
『感性』『悟性』『理性』の分類をしたカントさんや
現象学なんかの流れを汲んでいる人だね
かれが追求しようとしたものは
『存在ってなんだ?』
ってこと
この存在っていうのは
『本質』ってなんだ?
ってことだね
もちろん 『本質』には人間の身体も
入っているんだけど
ここで問題提起がされる
人間にとって
存在(本質だね)とは?
っていうのと
わたしにとって
存在とは? って
この二つは違うんじゃないかって
存在者と現存在
『人間』と『わたし』とでは
存在の意味が違うって書いたけど
実際のところはそれ以外にも
『人類』にとって とか
『生物』にとって とか
『本質』にとって なんて
存在の意味が違うものは数限りなくありそうなんだ
でも それを考えていたらきりがないし
なんといってもぼくも人間の端くれなんだから
『人間』もしくは『人類』という種のなかで
考えてみようじゃない
そうなると
『人間』・『わたし』・『人類』
ってものは
どう区別されるのかってことだね
人間とわたしの違いっていうのは
わかりやすいかも
ぼく=わたし で
あなた=人間 ってことで
いいんじゃないかな
ハイデカーさん ぼく(わたし)のことを
『現存在』
あなた(人間)のことを
『存在者』
って定義したんだ
では人類は? って
思うじゃない
ハイデカーさん曰く
自分(現存在)が実在と認識できる範囲の人間を
『存在者』と みなすけど
それ以外の人間は『本質』と一緒で
人間には手におえない(無関係)モノ
ってことにしたんだよね
現存在と存在者の間で意思疎通が完璧にできることは
無いとも言っている
ただ そのお互いに違う認識から
『本質』の真の意味に近づける方法があるかもしれない
とも言っているけどね