ショーペンハウアー

雑学を収集しようじゃないか雑学
スポンサーリンク

   インド系哲学の影響

ショーペンハウアーさん本人は、カントさんの考え引き継いでいると言っているけど

カントさんが聞いたらどう思うんだろう。

とにかく人は自分が見て、感じて、納得したもの

それだけを世界として見ている。

でも、それはけっして本来の世界とは別物だよ。

ってところは一致しているんだけどね。

カントさんは本来(人間の外の世界のことだね)の世界を

『物自体』と呼んで極端に言えば

手に負えないものとしちゃった

(こう言い切るとブーイングがくるかもしれないけど)。

ショーペンハウアーさんは物自体(本来の世界のことだね)を

存在としてではなく、『意志』だってよんだんだよな。

でもこの意志ってことばってどうとらえたらいいのかってのがややこしい。

それに輪をかけてむずかしくしちゃったのが

その意志は人間のなかにもあるんだよって・・・

そして人は本来の世界の意志を適当に取り入れて

世界を認識しているんだ、って・・・

さあ、どう処理しよう。

ショーペンハウアーさん

じぶんで言っているようにカントさんの

考え方を引き継いでいるのは間違いないと思うんだ。

人がもの(外の世界のこと)を知覚するときの

『感性』『悟性』『理性』の流れの部分では

すこし修正点はあるけど

ほとんど違和感がないように感じるもの。

でも、研究していく途中でショーペンハウアーさん

インド系哲学にはまっちゃったみたいなんだよ。

カントさんと微妙なズレを感じるのは

そのせいかもしれないね。

もっとも例によって『言葉』の使い方や捉え方が

少し違っているだけかもしれないけど。

なぜインド系哲学にはまっちゃうとズレが生じるのか?

ここまで書いてきたのは西洋を中心とした哲学の流れなんだ。

でも、哲学なんてシンプルな疑問を追求するものなんだから

世界中どこにでも蔓延してるんだよ。

宗教(特に多神教)なんてものは哲学だって言って十分通用するからね。

インド系の哲学ってけっこう宗教性が高い。

ジャイナ・バラモン・ヒンドゥそして仏教。

どれも宗教でありながら真理を追究

って不思議な哲学体系なんだ。

でも同じ宗教でありながらキリスト教(イスラムもそうかもしれないけど)とは

すこし方向が違っている。

西洋を中心とした哲学の流れ

特に中世・近世の哲学って

肯定するにしても否定するにしても

キリスト教の影響が大きいからね

インド系の宗教とはなかなか相いれないところがあるってことなんだと思うよ。

ショーペンハウアーさん、どこまではまったのかは知らないけど

世界の成り立ちは『意志』だってのは

影響を受けてるんじゃないかな

   表象と意志

さあ、ショーペンハウアーさんいってみようか。

カントさんとけっこう重なるから

退屈かもしれないけど復習だと思ってあきらめて。

世界ってのは『表象』(人の捉えた世界ってことだね)でしかない

世界そのものなんてものは無いんだよ。

もし存在するものがあるとするならば

それは『意志』なんだって

このあたりついていくのがしんどいな。

この世界には『表象』と『意志』しかないんだそうだ。

表象ってのはわかるようなきがするね。

個々の人が世界だって思っているもの

(見たり聞いたり触ったりして感じているものってことかな)

もしくは、感じているもののことだって考えて

あまり外れていないような気がする。

問題は『意志』。

ここは軽くスルーしておいて後で考えたほうがいいように思うな。

単純に言っちゃえば「方向性を持った力」

ベクトルが決まっているエネルギー

なんて捉え方でいいんだと思うよ。

『表象』ってものも分けることができるそうだ。

ひとつは『感性』が受け入れた信号としての表象。

そしてそこから判断された直感的な表象。

リンゴを見て赤いってのは『感性』が受け入れた信号で

あっ、リンゴだ」ってのが判断された直感的な表象ってところかな。

おいしそうだな、ってのもどうやらここに入るらしいんだけど

定かじゃないね。

もうひとつは抽象的な表象

こいつは概念とか呼ばれるんだけど

その概念を形成する能力が『理性』ってもの

このあたりまではカントさんと同じだね。

この『理性』、どうやら人間にしかないようで

人間と動物の区別は『理性』の有無で決まるらしいよ。

「経験したことで表象ができるんじゃなくて、表象を認識するってことが経験になる」

これってショーペンハウアーさんの言葉だけど

経験論に対しての言及だろうね。

経験論の否定じゃないけど

その経験を分析する持って生まれた『理性』があるんだよ

って、ことなんじゃないかな。

これもカントさんと同じだね。



ショーペンハウアーさんの捉えている

『悟性』の能力はカントさんの考えより

もう少し『理性』よりに見えるのは捉え方と表現の問題

それほどの違いはないと思うよ。

ひとがものを認識するのに

外部観測器官で捉えたものを悟性に伝達。

悟性はその持っているフィルタを通して

認識として保存されるってこと。

そのフィルタを『根拠の原理』って名付けて

この認識形式(フィルタ)から外れてものごとを認識しちゃだめよって法則が

人間には備わっているんだって主張している。

地域・時代の刷り込みや

生物としての進化の刷り込み以前の

人間としての刷り込みみたいなもんだってこと。

たとえばだよ、時間と空間をどう捉えるのか考えてみようよ。

時間の認識(時間ってのをどう捉えるか)ってのは

時間的に継続している一瞬を切り取って捉えているし

空間の認識(物理的な位置座標やそこにあるものをどう捉えているか)は

位置的に継続している一部を切り取っているっておもわない?

人間ってのはこの形式じゃなきゃ

どんなものも認識できないようにできてるのかもしれないね。

          

   理性

知識ってなんだろうか

感性が外部の状況を

休みなくひとの心の中に流し込んでくる。

入ってくる情報を

悟性がせっせと分類していく

理性はその分類された情報から

概念を作り上げていく。

だから概念ってものは

『表象』の『表象』って言い方もできるんだ。

悟性は物事を表象として直感する。

でも、理性の創り出す概念ってのは表象の表象

それぞれの関係性のことだから

直感されることなんかありえない。

だから「知る(知識でもいいよ)」ってことは

悟性が直感した表象を

理性が概念に定着させるってことでいいんだろうね。

ことばが難しすぎるけど

見たり聞いたりしたものを覚える機能と

そこから考えたものを覚える機能が

悟性と理性ってことにしておこう。

この理性が創り上げた概念を自由自在に

再現することができるから

ひとは論理的思考ができるようになるってことらしい。

言い換えれば人の特徴は

具体的なものと抽象的なものとの間で

二重生活を送れる生き物だって

ことなんだそうだ。

理性のほうが悟性の捉えた情報を組み替えるっていう複雑な作業をしているし

人間を人間たらしめる能力だからと言って

『知』が悟性より優れているとか理性がすべてっていうわけじゃないんだ。

概念ってものは間違うことが多いから

必ずしも直感に勝てるわけじゃない。

むしろ直感を基礎に置いたほうが

間違いがないかもしれないぐらいなんだね。

哲学ってのはすでにわかっていることを前提とする学問じゃない

未知のものを考える学問ってことだろう。

科学が限界として設定するところから哲学が始まるといってもいいかもしれない。

哲学はこの世界が「どこから来て」「何のために存在するか」

なんていう関係性を明らかにすることに固執しないってことだね。

この世界が「何であるか」

という『物自体』に挑戦しようとするものなんだろう。

だから、個々の人の直観から得られる認識を

普遍的な抽象的概念で再構築して

それを直感で認識できる知に置き換えることが

哲学の向かうところ、って捉え方かな。

けっして理性を高く評価しすぎてはいけない

たまたま人間が他の生物には無い能力を持っているだけで

それが優劣を表すものではない。

ってこれはショーペンハウアーが言ったんだよ。

けっして僕じゃないからあしからず。

         

   意志

意志と聞くとなにかの意欲、目標を感じないかな?

ショーペンハウアーさんは物自体(宇宙でもいいけどさ)

意志なんだって言っている。 

だとすると、その意志はいったい何をしようとしているのだろう?

目的と動機、それに従って自分の行動を進めていく

それが意志だって思うよね。

でもちょっと待って、相手は宇宙(世界)の意志ってことにならないかな。

なにを意志しているのかって疑問には

答えがあるかもしれないけど

なぜ意志しているのかって疑問に

答えってあるんだろうか?

そしてもしもなにを意志しているのかの答えが見つかっても

その内容が人間に理解できるのだろうか?

難問が山済みされているっておもわない?

意志って言い方が間違った方向に誘導しているのかもしれないね。

ショーペンハウアーさんとは少しずれるかもしれないけど

『力』もしくは『エネルギー』としたほうがわかりやすいかな。

燃え盛る炎のように人間にはどこへ飛び火するのかはわからないんだけど

方向と力があるものだってすれば

『意志』ってことばには説得力があるかもしれない。

だから根本にある意志には

方向性がないといえるのかもしれない

もしくは人間には方向性が見えないって。

その意志が表象として捉えられた時から

人の意志によりこまかな動機・規定が

なされるようになるって考えると

納得できるんじゃない?

さて、ぼくたちの外の世界は

意志(エネルギーかもしれない)で満ち溢れている。

でもぼくたちにはその意志に直接的に

触れることはできない。

表象として悟性のフィルターを通さないと

理解できないのだから。

もともと外の世界の意志はショーペンハウアーさん流に言えば

「盲目的な意志」と呼ばれるように方向性を持ってないんだけど

ひとの悟性と理性によって方向性や目的があるように思われてしまう。

でも、わからないって言われると

なんとかその方向性や目的がしりたくなってくるよね。

でも考えてほしいんだ。

努力や願望を実現することは

すばらしいことだって信じこんでるけど

努力や願望が達成されてしまうと

瞬間の達成感はあるけどその先にあるのは退屈だけじゃない。

意志を持って願望・努力すべきもの

言い換えればどうしても手が届かないものが

あるうちは幸福でいられるということは

ひとはなにかが欠けている状態でこそ

幸福でいられるってことになるってことなのかもしれないよ。

努力とはおしなべて最高のぜいたくのことかもしれない」

ってぼくの大好きな言葉だけど

ある意味真理だと思うな。

ショーペンハウアーさん、そこまで考えていたんだろうね

幸福ってものは苦の慰謝料なんだよだから幸福は高くつく。

世界の意志というものは苦しみってものの集合体ではないのだろうか、って。

実際、そうかもしれないね・・・

タイトルとURLをコピーしました