理性と行動

雑学を収集しようじゃないか雑学
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振出しに戻ろう

もう一度

考え直してみよう

本能をなぜ

調べだしたのかというのは

人間は言葉(記号)を使うから

直接生きるってことに関係ないことを

考えることができるという見解を

ぼくが『是』としたってことなんだ

じぶんのなかで

納得できたからだね

だったら

どこまでが記号を使わずに

考えているものなのか

どこからが記号が無いと

考えられないものか を

分けてみようとしたわけなんだ

記号を使わずに

考えることのできる部分が

本能じゃないかって

単純な発想

本能がわかれば

人間の考えている全体から

本能の部分を引けば

残りが記号を使って考えているところ

なんて 軽く考えたんだけどな

そうはうまく

いかないみたいだね

分からないことを調べるってことは

やはりおもしろい

新しい知識が入ってくると

どんどんじぶんの考え方が変わっていくもの

(ぼくが無知すぎるんだろうとは

思うけどさ)

考えかた だとか

本能とか思考ってものに

目をやっていたけど

きっと思考そのものは直接は観測できない

そんなものなんだろうと思えてきたよ

でも 宇宙やミクロの世界の

出来事を観測するのに

直接観測はできないけど

その出来事が ぼくたちの

観測できるものに与える影響を

観測することで本質の部分を推測する

これって 物理学やその他の科学で

普通にやっているじゃない

間接的に観測するという方法で

人間は多くのことを解明してきたもんね

それを利用しない手は

無いと思えるんだ

では 思考の

間接的観測方法ってなんだろう?

やはり 行動しかないんだろうな

行動 再登場

思考・感情なんていうものを

直接観測はできないってことを

いったん認めてもいいと思うんだ

脳波とか身体の変化で

観測できるんじゃないか

って意見もあるだろうけど

それも結局は思考が

肉体という物体に刺激を与えて

肉の塊が反応しているだけの

間接的結果だもんね

思考・感情の

(ヒュームさん曰くの観念ってもの)

間接的観測ができるのは

個体の行動ってことになる

というのは納得できるんだ

ヒュームさんの分類を

もう一度書いてみるね

人間の思考方法は

『印象』

(外部の取り入れられた情報)

『観念』

(情報分析からの行動指令)

の 二つに分類される

そして『印象』と『観念』

そのどちらにも

単純なものと複合的なものとが

あるっていう主張だね

馴染みがあるところで

書き換えれば

(馴染みがあるのはぼくだけかも)

印象は外部観測装置からの情報入力

感性・悟性だと思うんだ

観念は

考えるとか思考とか感情だと思うよ

いわく理性の部分だね

ただ 観念にも

単純観念と複合的観念がある

ってことになっている

これって

理性にも単純なものと複合的なものが

あるってことじゃないかな

理性の分類

理性(考える力でもいいよ)に

二種類あるっていうのは

これも納得できそうな

気がするんだ

単純と複合的という分け方には

問題があるかもしれないけどね

行動を促すのは

理性ってことで

いいんじゃないかな

だから 動物に

理性が無いっていう主張は却下

感性・悟性が

情報入力装置だとすれば

行動を促すものは

全て理性だってことにしたほうが

分かりやすいと思うんだ

自動制御装置も

(考えなくても勝手に身体が動くってやつだね)

理性の働きの

一部門だってことにしちゃうんだ

ぼくが使いたがっていた

本能っていう自動制御システムが

ある種の理性の中の『単純』って分類に

入るのかもしれない

だけど 自動制御にも

複合的刺激に対する

反応装置もあると思うんだ

だとすると

大脳が制御するのが複合的? 

これも違うような気がするんだよね

脊椎反応は単純理性だっていうのは

わかるようには思うけど

今 考えているのは人間の

(正確に言うならば ぼくの)

理性の働きだよね

理性は行動の指令室

だから 行動を基に

理性ってものを分けてみようよ

ひとまず理性を

『理性A』『理性B』と

二つに分けて

さっき書いた行動の分類を

あてはめてみよう

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