パスカル・スピノザ

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   パスカル

名前は知っているとおもうよ。

なにをしたひとかは知らなくても

台風シーズンになれば連呼されるからね

台風の大きさを表す『ヘクトパスカル』

このパスカルはパスカルさんの名前なんだ

(ヘクトは100倍のこと)

これ以外にも「パスカルの定理」みたいな数学上の発見や

確率論(博打の期待値なんか)

乗合馬車(今のバスだね)のシステム構築から

実際の運営までこなしたスーパーマン。

それ以上に知られているのは

「人間は考える葦である」って有名なことば

だから、哲学者なのか数学者なのか物理学者なのか実業家なのか

一言では表せない人なんだ。

もっとも天才って呼ばれる人は

古今東西多方面にその才能を発揮しているから

パスカルさんだけが特別ってことはないけどね。

パスカルさんはデカルトさんと同時期のひと。

デカルトさんの懐疑主義にはある程度共感していたみたいだけど

以降の明晰判明あたりには疑問の声を漏らしている。

プラトンさんあたりからはじまり

デカルトさんも基礎に持っている

『基礎付け主義』に反対して

現代でも多くの哲学者が主張する(ニーチェさんなんかも影響を受けたらしいよ)

『反基礎付け主義』の先駆者ともいわれている。

またわけのわからない言葉が出てきて申し訳ないんだけど

基礎付け主義と反基礎付け主義って

どうにもわかりにくい。

また専門家から叱責を受けるのを覚悟で書いちゃうと

理性が正しいっていう基礎(足場かな)から

ものごとを考えるのは良いのか悪いのか?

ってことじゃないかな。

演繹法と帰納法の捉え方の違いみたいにも言われるときがあるけど

これにはぼくはあまり賛同はできないな。

もっとも『一般命題』(事実だとされる命題ってことだね)

ってものの捉え方の違いってことなら

基礎付け主義は演繹法

反基礎付け主義は帰納法ってことになるかも

ってところでなんとかお茶を濁しておこう。

このあたりの考察はいつかやるということで

ひとまず有名な「人間は考える葦である」にもどろう。

でも、この「人間は考える葦である」ってのもわかりにくい。

パスカルさん、人生の後半(と言っても39歳って若さで死んじゃったんだけど)は

自然科学から精神のほうに興味をうばわれていたらしい。

虚弱な体質だったから仕方がないのかもしれないけど

現実の問題より関心は魂、神のほうに向かったていうのはわかるような気がする。

で、この「考える葦」

人間なんて自然の中では矮小な生き物

物理的には最下層に近い

でも、その思索は宇宙を超えるほどの偉大さを持っている。

そんなふうな捉え方が多いよね。

たしかにそういった部分もあるんだけど

まだ先がある。

思索も素晴らしいけど「愛」はもっとすごいよ。

イメージとしては物理的実在<精神的思索<愛なんだ

って感じで書かれている。

この「愛」ってのがキリスト教の神様の愛

のことを語っているのか

それとももっと別のもののことを語っているのか

今となっては確かめようがないけど

間違いなく言えるのは

この時代のこと、パスカルさんも敬虔なクリスチャンだった

ってこと。

もっとも、物理的実在・精神的思索・愛

これらは別次元のものなんだよってコメントもあるけどね。

なんといっても晩年のパスカルさんの発表した文献がない

パスカルさんの一番有名とされる『パンセ』って文献にしたって

生前に彼が残したメモを集めて

死後7~8年もたってから出てるんだから

パスカルさんの真意がまとめられているかどうかは疑問かもしれないんだ。

ただ、同時期のデカルトさんは

演繹的な方法で世の中を見ようとして

パスカルさんは

帰納的な方法で世の中を見ようとしていた

ってのは確かみたい。

 

   スピノザ

デカルトさんとぎりぎり被る時期のパスカルさん。

そのパスカルさんとほぼ被っているスピノザさん。

このふたりはどうしてもデカルトさんの影響をうけちゃったんだろうね。

もちろん今でも名前が残るひとたちだから

デカルトさん万歳みたいな、すなおに追従するような態度じゃないけど

根本部分にデカルト思想ってのは刷り込まれているみたい。

スピノザさんは「われ思う、ゆえにわれあり」ってのを

わざわざ「われ思惟しつつある」って言い換えてるぐらいだもんね。

ちょっと脱線するけど哲学でよく出てくる『思惟』(「しい」って読むんだよ)

ってのは考える(思考って書いてあるけど)ってことらしい

その思考ってのは

「感覚や表象の内容を概念化し、判断し、推理する知性の働き」のことを言う

って、どうしてこんなややこしい書き方をするんだろう。

デカルトさんは身体と心、二つの実態が別々にある(実体二元論)ってしたけど

スピノザさんは身体と心は属性が違うだけで

じつは同じもんなんだよって主張した。

実体があるのは『神』だけでその側面が

違うものに見えているだけだよってはなしなんだけど

わかりにくいよね。

この場合の『神』はもちろんキリスト教の『神』さまじゃない。

でも、ぼくがいつも書いているような

『宇宙の摂理』ってのとも少し違うように思えるんだよな。

このあたりは、後でかいてみよう。

スピノザさんの考え方なら

デカルトさんが批判を受けた

心が身体に、身体が心に影響を及ぼしあうのはなぜか?

って疑問はおきなくなる。

この考え、むかしからあるけど

『汎神論』(神と宇宙、自然とは同一であるとする考え方)を

前面に押し出したってのは近代ではスピノザさんだろうね。

『汎神論』というより『 理神論』に近いかもしれない。

人格神については

「民衆の理解力に適した説明の仕方」

としてかたずけているぐらいだから。

その考え方からはとうぜん

今ある現象、そして未来に起こる現象は

それ以前の現象の結果であって

そこに自由意志は無いって

決定論が導かれることになるっていうんだけど

これもなかなかわかりにくいんだ。

この決定論と非決定論

じっくり書いてみたいけど今は飛ばして

超簡単に言えば(簡単すぎて本質から少しずれちゃうけど)

「人間には自由意志があるのか? 無いのか?」ってことになる。

この議論は今でも続いているんだよ。

少し前までの自然科学の世界じゃ決定論が主流だったんだけど

現代の物理学の世界では非決定論のほうが優勢みたいなんだよな。

さてこの心身の合一(身体と心は二つで一つだよってこと)で

なおかつ決定論とくれば

当然ひとの感情ってのはなんだろう?

って、疑問が出てくる。

スピノザさんは人間のなかには欲望・喜び・悲しみという

反応機能が備わっていて

外部の力からじぶんを守るための力ももともと備わっている。

その力と反応機能が融合して感情ってものは湧き上がるものだ。

って、納得できるようなできないようなはなしなんだけどね。

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