散歩の途中

死ってなんだろう

死後の世界はどういったものなのか。意見や感想は多いけど今のところ確定した事実出て来ないね。だからひとまずの結論としては死や臨死体験の情報は今のところ意味が無いってことで放置しようよ。ただ 多くの死に臨んだ(本人談だけど)救急救命士のマシュー・オライリーさんのプレゼンは少し考えさせられたんだ。だからすこしだけ紹介してみよう。
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死後の世界

人が死んだらどうなるのか? それを宗教(一部のだけど)の観点から考えてみよう。政治都合で変わたんじゃなく本来の多くの宗教に共通しているのが人は死んだらいったんどこかに集められるらしいんだ。その後天国か地獄か極楽か もう一度現生に戻るかそれを決められるんだと。ただその中で涅槃という別次元に旅立つっていうのもあるけど。
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だれの為に観測するのか?

死というものは人間にとって大きな考察対象の一つじゃないだろうか。ただ生と死の境界にはあまりにも巨大な段差がある。というより死について研究・観測しようにも方法が無いんだ。直接観測はもちろん 間接観測でさえできないんだからどうしようもない。科学は生きている人間についての研究。生きている人間にしか観測手段を持たないんだから。
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散歩の途中

思考と感情

人間の精神は意だってことにしてみよう。人間 特に個の人間に存在意義が無い。そう言われても反論の仕様は無いだろう。だけどその存在意義が無いものがいろいろ考えたり怒ったり笑ったり そんな感情を発露させるのはなぜなのか。意が記録装置とすると簡単な話。感情や想いなんていうのはただの観測記録でしかない ってことかもしれない。
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セカンドの特異性 Ⅱ

生物という存在の目的は単純 必要以上に詰め込まれた水を時間内に排出するためにつくられた排水装置と考えればいい。排水装置の性能の優劣が生物の複雑化に相当するし その中でも最終能力を持つ排水装置がセカンド(人間)ということ。ただ高性能の機能を持つ装置を使用するのにはそれなりのリスクを伴う。人間は矛盾の塊 当たり前の話だ。
散歩の途中

セカンドの特異性 Ⅰ

人というのはなんだろう? 身体が人なのか心が人なのか? その二つが絡み合ったものが人だなんていうのは無責任な意見。どちらかが滅びた時残った方はどうなる? 体が壊れれば心も壊れるのか? 心が壊れれば体も壊れるのか? 健康寿命なんて言われるけど健康とは身体だけなのか? 心に健康は無いのか? う~ん わからないなぁ。
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セカンドと世界

セカンド 身近な言葉で言えばぼくたち人類 そんな訳の分からない存在が必要とされるのには意味がある。人の生には意味があるなんてはなしじゃない。ただ色と時 言い換えれば宇宙の構造上仕方なく生み出された存在がセカンド(人間)ってこと。個の人間には意味は無い ただ人類という種は世界にとって意味があるってことなんだろうね。
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セカンドとしての人類 Ⅱ

生物としては攻防にわたって三流としか思えない人類というものが今現在地上の覇権を担っている。たしかに氷河期の影響は大きかった。氷河期による覇者の入れ替え 大陸が陸続き アフリカの乾燥による樹上生活の困難。だがその中でたかが道具と火だけで短期間に地上の覇権をにぎったというのどう考えても異常な出来事だとしか言いようがない。
散歩の途中

セカンドとしての人類 Ⅰ

『人』っていうのは何だろう。今の感覚で捉えられる人・人類という姿はたかだか1万年ぐらいのスパン。ホモ・サピエンスという種なら10~30万年。ホモ属としてなら200万年。二足歩行を主なら4~500万年だけど 道具と火を主ならホモ属と同じ200万年。どちらにしても200万年という短時間でここまで覇権を握ったってことは異常だよね。
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進化の最終形

生物の進化の過程で時代の覇者が次代でも覇者であり続けたという歴史はまずないと言える。どちらかと言えばその時代の弱者とされる種が次代の覇者となるケースが多い。それでも最弱層の生命形態が覇者となることはまずあり得ない。その中で人類という最弱に位置づけられたはずの生物種が現在覇者の立場にいるということは奇跡でしかないだろう。
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