付記

雑学を収集しようじゃないか雑学
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   神と宇宙

ここまで書いてきて

すごく面白い分野なのに哲学ってやつがなんでブームにならないのか

わかるような気がしてきたね。

なによりことばがむずかしい。

そしてひとつの単語の意味がひとによって

解釈が違いすぎる。

哲学者が書いていることって

だれだってふと疑問に思うようなこと

そんなにむずかしいことが書いてあるわけじゃないんだけど

みんながふと疑問に思うことって

他人にことばで説明するって

むずかしいもんなんだろうね。

疑問じゃないけど

たとえば「おなかが痛い」って

他人に伝えるのってむずかしいじゃん。

どんなふうに痛いのかとか

おなかのどの部分が痛いのかって

説明しても、きっと他人じゃわからないとおもわない?

数多くの症例をみてきたお医者さんなら

だいたいの感じは伝わるかもしれないけど

それでも本人の感じている痛みなんてわかるわけないと思うよ。

すこしずれるけど『歯医者の定理』ってしってる?

歯を削られるときに思い切り痛がる人は

がまんが足りないのか、感受性が強すぎるのか

さあどっち? ってバカな話だけど

わかりやすいものほど他人には伝えにくい

ってのは確かだと思うな。

だから、確実に伝えるために

確実なことばを選ぶ。

正確を期せば期すだけ

だらだらと長くなるし

短い単語でかたずければ

解釈が山ほど出ちゃう。

だからその一つ一つのものごとを確定するのに

あたらしい言葉をつくっちゃうってことになるんだけど

そのあたらしい言葉が一人歩きって

こまったもんだね。

なぜこんなことを書いているのかというと

スピノザさんやデカルトさんの

『宇宙』ってものに対する主張の違和感からなんだ。

どちらにしても『宇宙』=『神』ってところでは

一致してるんだけど

その『宇宙』ってのがただ空(実在しているもの)としてのものなのか

『時・空・意(時間と実在と精神にしておこう)』をすべて含んでのものなのか

そこんところがあやふやなんだよね。

もちろんそれ以前にも以降にも出てくるけど

いろんなひとが主張する宇宙や神の

『宇宙』ってなにを指してるの?

『神』ってなにを指してるの?

って、わかりにくい。

そこんとこが完全に定義されれば

「決定論か非決定論か」なんていう議論はないかもしれない。

その他いまだに結論の出ていない命題も解決するかもしれない

って、思うんだけどな。

ひょっとすれば、だけどね。

だけどそうはいかない

言語ってやつはやはり伝達手段としては未完成なんだと思うよ。

和訳なんて特に、より分からなくしてやろうって

おもって翻訳してるんじゃないかなんて

悪意を感じるのは

ぼくの読解力の不足かもしれないけど・・・

   決定論と非決定論

ここからは補足。

適当に読み流してくれればいいよ。

デカルトさんからスピノザさんへの流れの中で出てくる

単語の説明だけしておくつもりだから。

パスカルさんも関わってはいるけど

どうも最終的にはどうしてもキリスト教義から

抜け出られなかったみたいだから

すこし保留にしておこう。

デカルトさんもスピノザさんも

決定論者だったんだとは思う。

決定論ってのは

今あることは過去の集積の結果

未来におこることは過去・現在の集積の結果だよってことなんだ。

もっとも物理学で考えられる決定論と

哲学で考えられる決定論ってのはちょっと違うってのが

ややこしいんだけどね。

いまのところは哲学の方面で情報収集しているから

物理学上の決定論はあまり触らないようにしておこう。

いつか量子力学あたりは書きたいから

そのときには嫌になるほど出てくると思うけど。

この決定論や非決定論の論争は

もともと宗教的(とくにキリスト教においてだけど)

世界観や信念から出てきたものが

哲学者たち(とくに西洋の)のあいだでも

議論されるようになったんだ。

よく言われる人間に

自由意思はあるのか無いのか? って論争だね。

でもこういった問題は宗教や哲学に限らなくても

いつの時代でも人間が生きている限りつきまとってる。

たとえば現代でも『故意』と『未必の故意』ってわけてるじゃない。

人を殺しても量刑がちがうもんね。

これって非決定論だと思うよ。

はなしは戻るけど

哲学方面の決定論でも

因果的決定論(完全決定論)と確率的決定論(確率論)ってのが

あるからこれまた困ったもんだ。

因果的決定論は

原因と結果の関係は因果律に支配されている

だから未来は現在および過去によって規定されちゃうんだよ。

確率的決定論は

未来は因果律によってではなくって

確率によって支配されている

その確率の間で未来は決定しちゃうんだよ。

ってことらしい。

デカルトさんの明晰判明も機械論も

スピノザさんの汎神論なんてのも

この決定論がベースになっているってことじゃないかな。

だから人間に自由意志は無いって立場なんだ。

でも勘違いしないでほしいんだけど

自由意志がないってのはけっして思うがままにひとは生きられない

ってことじゃないんだよ。

この宇宙(神でもいいけど)は因果律に従っている

ってことなんだけどうまく説明できないな。

自由意志とはなにか? ってところは

まだだれにもわかっていないんだから。

天使長ボイドの『全て因果の流れのままに』って

捉え方によっては絶望にも聞こえるかもしれないね。

   汎神論 etc

物理学ってのか自然科学での決定論の捉え方にも

すこしだけ触れておくね。

自然科学の世界って

物理学にしても数学にしてもガチガチの決定論って

感じがしないかな?

「宇宙の全ての原子の運動および位置が分かるならば未来は完全に予測できる」

ってラプラスさんなんかは言い切ってたもんね

(ラプラスの悪魔)

だからもともとはそうだったんだけど

最近ではすこし変わってきている。

ハイゼンベルクさんの不確定性原理や

量子力学のコペンハーゲン解釈や多世界解釈なんかで

決定論の証明が難しくなったし

決定論を採択するにしても

確率的決定論の方に考え方は向いているようなんだ。

このあたりはとってもおもしろいけど

またの機会ってことで。

今は出てきた言葉ってやつを

もう少し書いてみよう。

スピノザさんのところで出てくる『汎神論』。

まず『神』ってのをイエスさんとかアラーさんとかお釈迦さんとか

人格神かそうでないかは置いておいて

ひとまず『造物主』ってことにしよう。

宗教の多くはこの世界の全ては

創造者によって創造されたって発想。

言い方を変えれば、世界ってのは世界の外にある神によって

創造されたんだよって考え方。

これを二元論的とよんでいるんだ。

神様が対象として在るためには必要な考え方だね。

さて汎神論のほうだけど

この宇宙、自然すべてのものは

創造者そのものなんだよ。

もしくは、全ては創造者を内に含んでいるっていう考え方。

一元論的って言うけどこの考え方だと二通りの捉え方ができちゃう。

神様のみが実在していて世界は神様の現れや表現だよ

って考えれば無世界論(現実の世界なんてないんだ)になっちゃうし

実際にある世界(宇宙でも自然でも)だけが実存しているんだよ

それこそが神様なんだって考えれば

無神論ってことにもなりかねないとおもわない?

ついでに書いちゃうと

汎神論と理神論

ごっちゃにしてよく書かれているんだけどすこし違うんだ。

理神論はどちらかというと二元論的な考え方なんだけど

ただ神はこの宇宙をつくっただけで

あとは干渉しないって考え方。

言ってみれば放置プレイと放置の違いかな。

宗教に出てくる神さまは

放置プレイ。

理神論で捉えられる神さまは

放置ってことだね。

スピノザさんの神に対する捉え方は

汎神論的って言われているけど

無世界論でも無神論でもないんだから

どちらかといえば理神論の発展形っておもっても

いいんじゃないかな。

ついでにパスカルさんのところに出た

基礎付け主義ってのにも少し触れておくね。

でも、例によってわざとわかりにくく

説明されているから適当に読み飛ばしてもいいと思うけど。

まず『知識』の定義からはじまるんだ。

「知識とは正当化された真なる信念である」

ってこのわかりにくい定義がプラトンさんからはじまっている

伝統的な定式ってことになっているらしい。

これって絶対に一般の人にはわからないように

わざわざ書いているよね。

おもいきりこじつけた解釈をしちゃうと

『信念』てのは一般命題のことなんだろうね。

『命題』ってのは、真または偽という二択で表せられるもので

『一般命題』ってのは『真』であると認められた命題ってことだと思うよ。

だから知識ってのは一般命題によって正しいと認められたもの

ってことになるんじゃないのかな。

だからこの考え方が『演繹法』(一般命題から個々の事実を導き出す)

の基礎となっている考え方ってのは

わかるような気がする。

ではその知識をもたらす信念(一般命題ってするよ)が

正しいってどうやって決めるのかって問題があるよね。

プラトンさんからデカルトさんにかけての哲学者たちは

『理性』ってのを基礎にして導き出すって

方向で論議しているけど

ではその『理性』ってのは本当に基礎として認められるんだろうか?

もう少し後で出てくるけど

基礎としては理性じゃなくて『経験』だよって説もある。

それでも『経験』ってものにしても本当に基礎として

認められるのかどうかって疑問は消えないんだよな。

この信念(一般命題でもいいけど)が正しいとできる

基礎を認めることができるのかできないのか。

それが『基礎付け主義』と『反基礎付け主義』ってことみたい。

事実を積み重ねて一般命題に至るべきだって

『帰納法』を軸に置いたパスカルさんは

反基礎付け主義の先駆者だっていわれているみたいだね。

でも実際に反基礎付け主義が前面に出てくるのは

もっと後の時代。

『相対主義』ともいわれるように

どうやらアインシュタインさんの

相対性理論なんかが発表されて以降のこと。

パスカルさんってもしかすれば

先見の明があったのかもしれないね。

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