ニーチェ 補足

雑学を収集しようじゃないか雑学
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古代ギリシャ哲学

せっかくニーチェさんが傾倒していた

古代ギリシャ哲学やインド思想が出てきたから

すこしだけ書いておこうかな。

いつかはこの部分は真剣に調べなくっちゃいけないんだろうけど

なんといっても複雑で

なおかつ資料が少なすぎる。

準備ができたら挑戦するけど

今のところはさわりだけでご勘弁を。

古代ギリシャ哲学。

この時代の文献ってのがほとんど残っていない。

だから推測やら伝聞でしかわからないんだけど

じつは本当にすごいというか、おもしろいというか

ギリシャってすごい国だったんだなって

あらためて思えるんだ。

たまに残っている文献でも

今の時代みたいに論文形式では彼らの思索が発表されていない。

その当時はじぶんの考えを発表するのに

詩として発表したってことらしいんだ。

詩ってのは意見を短くまとめてある

だから、ひとによって解釈がわかれちゃうことが

多々あるんだよね。

それをまた伝聞で伝えていくとなると

もとの趣旨がどこにあったのかなんてわからなくなるんだよな。

もうひとつ

かれらは先駆者だったってのもある。

いままで聞いたことも考えたこともなかったものを

他人に伝えるってのは

そりゃ難しいに決まっている。

だからいま伝わっているものが

正しいかどうかはわからないから

あくまでも『らしい』でしか書けないんだよ。

かれらの関心は自然と宇宙。

自然の驚異や脅威、宇宙の不思議を

それまでは神話の世界で語られていたのを

神の力じゃなくて自然現象なんじゃないの?

って考えだしたひとたちってことらしい。

すべてのものはどこからくるんだろう?

(物事・宇宙のはじまりは何なの?)

すべてのものは何からできているんだろう?

数というものが多くのものを説明できるのはなぜ?

なんてことを考えていたってことらしい。

もっとも、どこまでが本当でどこまでが後世でつくられたものか

はっきりとはわからないのは事実だけど

もともと哲学の主要問題の『真実』と『事実』の関係

事実はけっしてひとには認識できないってのがあるじゃない。

だから適当に解釈しても許してもらえるんじゃないかな。

かれらの提案した論理は

観察にもとづいているとはいっても

思考実験の要素が強かったんだ

(実験装置もまだまだ不完全なんだからね)。

そのためほとんど後世の自然科学者たちは

相手にしなかったけどその姿勢は評価されている。

それでもそのなかには

タレスの定理やピタゴラスの定理

不完全とはいえ原子論まであるんだから

やっぱりすごいとしかいいようがないね。

インド思想

東洋思想は神話と宗教、そして哲学が

おたがい違和感なく融合しているんだよな。

だから宗教と知られているバラモン教、ヒンドゥー教

なんといってもぼくたちになじみのある

仏教なんて宗教か哲学かと言われたら

こたえに困ると思えるけど。

もっともニーチェさんが影響を受けたのは

ぼくたちが知っている仏教とは少し違うかも。

今日本に流行っているのは大乗仏教系だと思う。

もともとの仏教(初期仏教)から部派仏教(上座部と大衆部かな)へ

そして大乗仏教が現在幅を利かせている。

で、ニーチェさんが影響を受けたのは

上座部系みたい。

上座部仏教は少し前まで大乗仏教から小乗仏教って

非難されていたんだ。

大乗の言い分は

仏教ってのは庶民を救う宗教だ。だからみんなを極楽浄土へ

連れていくためにあるんだ。

小乗なんてじぶんだけうまくいけばいいっておもっている

考え方が狭い連中だ。

おれたちは大型船でみんなを彼岸に運ぶけど

小乗は小舟でじぶんだけ彼岸に行こうとしているんだよ。

ってことで馬鹿にしていたみたいだね。

このあたりキリスト教にも通じるものがあるけど

宗教としておおきくなる方法と

教義を確立していく方法のギャップってのは

あるんだろうな。

また話が脱線したから戻すけど

ニーチェさんが影響を受けた書物にもどってみよう。

『ヴェーダ』

Bc1000bc500頃の宗教文書の総称で『知識』って意味らしい。

バラモン教とヒンドゥー教の聖典でもあるね。

『ウパニシャッド』

ヴェーダの関連書物で『奥義書』なんて呼ばれている。

『マヌ法典』

意味が少しずれるかもしれないけど

法律って言うのか、決まり事を書き記したもののことかな。

バラモン教やヒンドゥー教のバックボーンとされていて

特にヒンドゥー教では生活規範とされているようだね。

『スッタニパータ』

きっとこれが一番ニーチェさんに影響を与えていると思うんだけど

上座部仏教のなかの経典のひとつ。

そのなかに『犀の角』ってのがあるんだけど

これってニーチェさんの『超人』に

あてはまるんだよな。

犀の角

「犀の角のようにただ独り歩め」

これって好きなフレーズだね。

本当は原文を載せればいいんだろうけど

きっと『サンスクリット語』なんだろうな

まず読解できないとおもうよ。

和訳の文章もあるんだけど

哲学の和訳が分かりにくいのと同じで

出てくる文章はわかりにくいんだよな。

だからおもいきりくだけた口語文のを

参考で載せておくことにするね。

はっきりいってすさまじいほどの意訳。

原文とはかけ離れているかもしれないけど

正確なところを知りたければ

「犀の角のようにただ独り歩め」で調べられるので

よろしく。

書き写す前に一応の補足。

インドの犀は『インドサイ』もしくは『一角サイ』と呼ばれ

角が一本のサイ。

通常は単独で行動しているらしいんだ。

だから独りで生きていこうという比喩に

サイが使われたんだと思うよ。

もうひとつそれぞれの文節の最後に

『独りで行こうよ』ってのがでてくるけど

この部分が原作では

「犀の角のようにただ独り歩め」って

書いてあるところだね。



『犀の角』

まわりと関わらないで

子供や友人なんか求めないで

独りでいこうよ。

親しくなったら愛情が生まれちゃうよ。

愛情が生まれれば苦しみがおきちゃうもんだ。

愛情ってのは苦しみの原因なんだってことをわかって

独りでいこうよ。

他人に同情すると思ったように動けなくなる。

親しい人がいるってことはそういうことなんだから

独りでいこうよ。

妻や子に愛情を注ぎこむってのは

竹が絡み合ってお互いに依存しているみたいなもんだよ。

タケノコみたいに、絡み合わずに

独りでいこうよ。

鹿だって食べ物を求めていろんな所へ行くじゃない。

ちゃんとした人なら自分が行きたいところに

どこへでも行けるはずだよ、だから

独りでいこうよ。

仲間と一緒にいたら

なにをするのにも声を掛けられるじゃない。

他人にじぶんの行動をどうこういわれるなんて

嫌だと思わない?

だから自分が望むように

独りでいこうよ。

仲間といたら楽しいよ。

子供がいたらかわいくって仕方がない。

そんな素敵な人たちから離れていくのは嫌だけど

独りでいこうよ。

どんなところにいてもそこに満足して

どんなことにでも平然と嫌がらないで

独りでいこうよ。

坊さんになっても色香に迷う人はいるんだよ。

仏さんを一生懸命信じようとしている人だって

おなじようなものだよね。

でもね、他人の女には目もくれずに

独りでいこうよ。

葉が全部散ってしまった銀杏の木みたいに

誰かの教えに従わなくっちゃなんて思い込みをやめて

じぶんさえしっかりしてればいいじゃない、だから

独りでいこうよ。

こころから素晴らしいと思える人と出会えたら

なにがあってもその人といっしょに行くべきだよ。

でもね、そんなひとに出会えないのなら

中途半端に出会ったひとはどんどん捨てて

独りでいこうよ。

本当の友人と出会えるってのは最高の幸せ。

じぶんより優れてたり、同等だと思える

友人に出会えたらどんどんと親しくなるべきだよ。

でも、そんな友達に出会えなかったら

わざわざ煩わしいことに近づかないで

独りでいこうよ。

すごく素敵なふたつの腕輪。

ひとつの腕に嵌めたらぶつかり合うでしょ。

そういうことなんだよ、だから

独りでいこうよ。

二人でいると煩わしい話やトラブルも起きるんだよ。

だれかといるということはトラブルの原因ってこと、だから

独りでいこうよ。

人の欲望ってのは色とりどりで甘美なんだ。

でも、人の欲望ってのは楽しいからこそ心をかき乱してしまう。

欲望にはそんなわざわいもあるんだ、だから

独りでいこうよ。

この欲望ってのは

じぶんにとって災害であって、疾患であって、恐怖なんだ。

欲望ってのは恐ろしいもんなんだよ、だから

独りでいこうよ。

暑さ寒さ、飢え渇き、風と太陽の熱、虻と蛇。

世の中には苦労の種がいっぱいあるね。

でも、こんなものに負けずに

独りでいこうよ。

大人になった立派な象は

群れあつまらないで、自分だけで自分が望むように

森の中を歩いている。そんなふうに

独りでいこうよ。

仏教を信心をするためにみんなで集まるってのがあるよね。

みんなで集まることを楽しむ人々が解脱に至るわけがないんだ。

ブッダのことばだけを考えていればいいのにね、だから

独りでいこうよ。

いろんな意見があるけどさ

自分の行くべき方向を決めた人は

他の人の指導はもういらないことがわかっているから

独りでいこうよ。

際限なくものを手に入れようとしたり

人をだましたり、うらやましがったり。

じぶんを飾り立てたってしょうがなくないかな。

そんなくだらないものに捉われないで

独りでいこうよ。

ろくでもない人がそばにいたら逃げようね。

何でも欲しがる人には近づかないようにして

独りでいこうよ。

ものごとをちゃんと考え、知識が豊富で

真っ当な人とは親しくなりたいね。

いろいろ吸収させてもらって

独りでいこうよ。

くだらない遊びや楽しみで満足したり

もっと喜びを味わいたいとか思わないで

偽りがないところで本当の自分を見つめて

独りでいこうよ。

妻や子、親、親戚、友達、金それ以外でも

ひとを縛り付けたり惑わせるものはいっぱいあるよね。

そんなものは全部捨てちゃって

独りでいこうよ。

そうやってじぶんを見つめるのは

楽しくないし、どちらかといえば苦しいけど

でっかい魚を釣るための釣り針を磨いているんだと思って

もっと上を目指したいのなら

独りでいこうよ。

魚だって網を破って逃げるのがいるよ。

火だってじっと同じところで燃え続けられないでしょう。

縛り付けようとする網なんて破ってしまって

独りでいこうよ。

じぶんからまわりの人に関わっていかないほうがいいよ。

雑多ないろんな情報も入ってくるけど

自分のこころの芯はしっかり守ってやってね。

雑音に惑わされないようにして

独りでいこうよ。

葉が散って裸になった銀杏みたいに

無駄に身に付いたいろんなものを脱ぎ捨てようよ。

裸だと世間からびっくりされるから

一枚の布をまとったぐらいで

独りでいこうよ。

欲望・怒り・落ち込み・浮つき、後悔・疑惑

そんなのが悩みの原因。

そんな悩みは放り投げて

愛とか信頼とか依存とかそれも断ち切っちゃって

独りでいこうよ。

今までが楽しかったとか辛かったとか

そんな思い出なんか捨てちゃって

穏やかな気持ちのままで

独りでいこうよ。

目的ってのがあるならさ

こわがったりなまけたりしないで

目一杯やろうよ。

もちろん体力も知力もいるけどね、そうやって

独りでいこうよ。

深く考えるのをやめたらいけないよ。

いろんなことを理屈に合うように考えて

生きるってことは理不尽だってことも分かったうえで

独りでいこうよ。

欲から離れてひたすら学べたらいいね。

本当のことを知るために日々鍛錬しようじゃない、だから

独りでいこうよ。

ライオンが当然のように草原のど真ん中でくつろぐように

真理に向かう大変な道の真ん中でも

親しんでくつろごう、そうして

独りでいこうよ。

慈しみ・平静・あわれみ・解脱・喜び

それだって必要だよ。

世間に背を向けることは無いんだ、でも

独りでいこうよ。

欲とか好きとか嫌いとか、思い込みなんてものも捨てちゃって

縛り付けられた網を破って、死ぬことなんかも怖がらないで

独りでいこう。

利益を目指さない人ってめずらしいんだよ。

そしてそんな人なんてめったにいやしない。

人間なんて自分の利益のために

まわりとつるんだり、奉仕活動なんてものをしているんだ。

でも自分の利益しか考えない人っていやらしいよね、だから

独りでいこうよ。


 

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