多世界解釈 Ⅰ

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コペンハーゲン解釈の問題

波動関数っていうものは

時間とともに

変化していく関数だね

時間変化とともに

変化していく関数を

『人間』から見ると

矛盾を持つ状態が

2つ以上の状態が

同時に存在する

いわく『重ね合わせ』って

状態が存在しちゃうってことだね)

存在しちゃうってこと

あくまでも人間から見たら

ってことで

自然(宇宙)から見れば

「それがどうした」って

ことなんだろうけど

コペンハーゲン解釈は

本来重ね合わせが

あたりまえの自然を観測したときに

その重ね合わせが消えて

ひとつの状態に

なっちゃうってことで

頭を悩ましているってこと

波束の収縮ってことにして

この状態を納得させようとすると

射影仮説なんてものを

後付けで持ち込まなくちゃ

ならなくなったりするんだ

そんな問題を

(波動関数と観測された状態)

波束の収縮や射影仮説を抜きに

理論づけるものが

多世界解釈ってことだね

そんな画期的なはなしが

なぜ量子力学の

メイン解釈にならないのか? って

不思議だよね

原因の一つとしては

多世界解釈は

観察・実験という

物理学の常套手段が使えない

っていうのがあるんだ

要は 理屈としてはわかるけど

『仮説』として導入するには

その前提となる理論に

証拠が無いっていうのが

(最近はやりのエビデンスだね)

一般的な否定的意見

それよりもっと本質的なものは

人間の心情的な問題じゃ

ないかってぼくには思えるんだ

批判を先に書くより

簡単に概略だけ紹介してみよう

あくまで素人のぼくの

独断だけどね

多世界解釈とは Ⅰ

波動関数が量子の世界を

表しているっていうのは

ひとまず(今のところ)

『定理』寄りの『公理』って

ところかな

公理は数学で定理を証明するために

前提として仮定されたもので

定理は公理から論理的に証明された

命題とか特に重要なものを指すものだよ

簡単に言えば

認められている

考えかただってことだね

コペンハーゲン解釈では

量子の世界は波動関数で

表せられるはずなのに

人間が観測した瞬間に

その波動関数が崩れるってことが

問題になるわけ

多世界解釈では

観測者としての『人間』も

波動関数の中に

いるはずだってことになるんだ

この世界はすべてのものが

波動関数で表せられている

ってことだね

そうなるとどうなるか

波動関数の世界で

(いろいろな状態が重なり合った世界だね)

波動関数に支配されている

人間が観測した状態

ある人がAという状態を観測する世界と

Bという状態を観測する世界が

重ね合わされているってことだけで

別に騒ぐほどのことは

なくなっちゃうんだよ

わかりにくいから

シュレティンガーの猫で

書いてみよう

猫の生死の確率が

50%の実験装置の中で

猫が死んでいるか生きているかは

見てみる(観測)まで

わからないわけだ

観測した結果

(ふたを開けて見た時だね)

猫が死んでいたとしようよ

コペンハーゲン解釈だと

観測するまでは

生きている猫と

死んでいる猫という状態が

重ねあわされていたって

ことになっちゃう

ところが多世界解釈だと

死んでいる猫が

観測されたということは

観測される前から

猫は死んでいたってことになる

って、わかりにくいよね

多世界解釈とは Ⅱ

猫はいつ どうして死んだのか?

普通に考えてもらっていいと思うよ

猫が青酸ガスを吸ったからだよね

では どうして

青酸ガスは充満しちゃったのか?

ハンマーが青酸の入った

瓶を割ったから

では どうしてハンマーは

瓶を割ったのか?

検出器がα線を検知したからってこと

そういう設定をした実験だったからね

量子力学としての問題は

ラジウムがα線(放射線)を出す確率が

50% 50%に設定してあったってところ

言い換えれば波動関数が

50%を指していたってこと

だから 死んだ猫と生きている猫の

重ね合わせなんて

極端なことは

結果としてのはなしで

じっさいの重ね合わせは

波動関数として50%を示す状態

ラジウムが放射線を出すということと

放射線を出さないってことの

重ね合わせ問題ってこと

たしかに人間が

ラジウムが放射線を出すかどうかの

波動関数の外にいて

この実験の観測をおこなっているとしたら

その(放射線の有無)因果関係から

猫の生死が

重ね合わせ状態だってことになるよね

だけど 人間も含めて全てのものが

波動関数が表す世界に

いるってことにすれば

ラジウムが放射線を出した

世界にいる人間と

放射線を出さなかった

世界にいる人間の

重ね合わせ状態だってことになっちゃう

言い方を変えれば

猫が死んでいるのを

観測した人間と

猫が生きているのを

観測した人間が

いるってことになっちゃうんだ

波動関数はいくつかの

重ね合わせを生み出すという

可能性を含んでいる

それを観測する人間を

波動関数の外にいるということにすれば

『観測問題』っていうのは

避けて通れない

でも 『多世界解釈』で考えれば

人間も波動関数の中にいる

ってことになるんだ

だから『観測問題』は起こらないし

量子力学が受け入れられなかった

要因のひとつの

因果関係の崩壊ってことも

起こらないってことになっちゃう

ぼくたち自身が

多くの可能性の一つにしか過ぎない

という考え方は

どこをつついても

矛盾がおきそうにないと思わないかな

ただ 次々と世界が生まれていき

その世界ごとに別々の自分がいる

ってことに

ぼくたちの気持ちが

ついて行けるのかどうかって

問題はあるけど

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