論理的思考

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   帰納法と演繹法

論理的思考って言われてまず最初に出てくるのは

なんといっても『帰納法』と『演繹法』じゃないかな。

調べてみるとその原理はいたって簡単

すぐにわかったような気にはなれる。

だけど、いざ説明しようとすると

そこいらじゅうでつまづくのは

なぜなんだろう。

帰納法ってのは

『事実』をいっぱい集めて

そこから共通点を見つけ出して

仮説をたてる。

その仮説を検証して

正しい一般論をみつけだすってことになる。

演繹法ってのは

検証されて『正しい』とされた

一般論から個々の事象を

推論するってことになるのかな。

とっても簡単なことみたいだけど

これだけ聞いてわかったような気になれる?

なにより問題になるのは『事実』ってやつなんだ。

ここまで書いてきた先人の哲学者たち

事実ってものに否定的だったような気がしない?

事実ってものはデカルトさん流に言えば『物自体』。

ひとが事実ってとらえられるのは

それこそ悟性によって得られた『真実』

しかないってさんざん言っていたような・・・

だからこの演繹法や帰納法自体に

基礎となる部分の不確定さは残っているという

前提でもうすこし書いていこう。

帰納法の代表格はやはりベーコンさんじゃないかな。

ベーコンさんを筆頭とする経験主義者ってのは

いくつもの事実を組み合わせて(経験するってことだね)

本質を見極めていこうよ、ってするんだから

とうぜん帰納法の立場をとるよね。

経験論ってのは

観察や実験などを繰り返し行うことによって経験を積み

結果的に真理に到達するって考え方だもの。

だから帰納法が先か経験主義が先かっていわれたら

むずかしい。

でも、この複数の物事から共通点を導き出して結論を導き出すって考え方なんて

人間がもともと持っている思考法なんだと思うよ。

ただそれに名前が付いたのが『帰納法』の本質ってところかもね。

演繹法の代表格といえばデカルトさんかな。

あれだけ物事を疑い続けたデカルトさんが

考えているじぶんはいるんだってところから

出発したときに使った明晰判明なんて

どうみても演繹法の手法だもんね。

合理論(理性主義でもいいけど)の

『理』に相当するものは正しいとされた一般論

そう考えてもおかしくないもの。

これにしたって人間のもともと持っている思考法。

ただ名前が付いただけってことにしてもいいと思うよ。

じゃあどうしてもともとみんなが持っているはずの

思考方法にわざわざ名前を付けたんだろう?

この帰納法や演繹法にしても

哲学の難解な言葉たちの数々にしても

哲学者たちにとっては

じぶんの論理を深めるための道具じゃなくって

他人にじぶんの考えを理解してもらうための

コミュニケーションツールってことだけなのかもしれないね。

   推論

推論(アブダクション)は

観察された事実の集合から出発して

最良の説明へと推論する。

ってこれだけ聞くと帰納法と何が違うんだろう?

っておもうよね。

人の思考過程で重要になってくるのが

『因果関係』ってものだそうだ。

因果なんて固く言わなくても

原因と結果だよね。

こういうことがあったから

ああゆうことになった。

ああすればこうなる。

なんでもいいけどさ

そういった関係性を人は欲しがるってことなんだよな。

ここで書いている論理的思考なんて

かっこつけてるけど

けっきょくはこの因果関係を

見つける方法のことだと思うよ。

繰り返しになるけど

演繹だと

Aという事実があった。

正しいとされる一般論Bで

AがおこればCになるという規則がある。

ならばこの事態はCになるだろう。

って考え方になるよね。

この場合事実Aと一般論Bが正しければ

結論Cも正しいってことになる。

帰納だと

同じところに分類される

Aという事実があったら

Cになった。

A’という事実があったら

Cになった。

A”という事実が・・・

Cになった。

だからAという事実があったら

Cになるって一般論Bが成り立つよね

ってことになる。

この場合その可能性は高いかもしれないけど

Bが正しいとは言いきれないところがつらい。

推論だと

Cという結果が出た

正しいとされる一般論B

AがおこればCになるという規則がある。

だから過去にAという事実があったに違いない。

ってことになるのかな。

これは一歩間違えば詐欺に使えそうなぐらい

あやふやな論理だね。

やはりこれも説得技術の

一種なんだろうな・・・

   類推

最後にもうひとつ

論理的思考としては精度が高くは無いんだけど

けっこう実用的につかわれている

方法も書いておこう

類推(アナロジー)

なにか正しいとされる一般論があるとしようよ。

例のAならばCってやつね。

その一般論をぜんぜん違うところで

つかう方法って、わかってもらえないだろうな。

身近で考えるなら

擬人化ってのを考えてみて。

たとえば自然や動物、物なんかを

人間の体や他のなにかにみなして

その状態を対応させていくことってないかな?

とくに自然を人間の身体に対応させることを

アナロジズムって言うらしいけど

組織論なんかも擬人化しているものが

多いんだけど気が付かないかもね。

でも『法人』なんて考え方

組織に人格を与えようって発想なんだよ。

哲学の分野で類推が活躍したってはなしは

あまりきかないけど

自然科学の分野

とくに物理学の分野ではけっこう

華々しい活躍をしているみたい。

知っているだけでも

ファラデーさんのマクスウェル方程式。

ボーアさんの原子模型。

ブロイさんの物質波。

なんてそうそうたるメンバーが出てくるんだ。

ひょっとすれば、因果関係を探るのには

この『類推』ってのはむいているのかもしれない。

前にも書いたと思うけど

哲学、特に精神の奥底に潜り込もうとする方向性を持った哲学には

因果関係って概念がじゃまなのかもしれないね。

でもそこで矛盾がおこっちゃう。

ひとってのは因果関係を抜きにしてはものが理解できない。

そう感性と悟性、それに理性のうち

とくに理性は因果関係を欲しがるんだよな。

ついでに書いておけば

感性と悟性はデジタル認識なんだけど

理性ってのはアナログ認識しかできないってのも

矛盾じゃあるよね。

(このアナログとデジタルってのも面白いよ。機会があれば書いてみるつもりだけど)

とにかく、ここまで論理的思考ってのを

書いてみたけど

じっさいのじぶんのなかでの思考方法ってのは

きっと、そんなふうに分類されているようなもんじゃないと思うんだ。

その場その場で使い分けて

プラス、直感と勘違いをまぜあわせて

考えているんだと思うよ。

ようするに論理的思考法ってのは

他人に少しでも理解してもらうための方法

ってことだね。

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