キルケゴール

雑学を収集しようじゃないか雑学
スポンサーリンク

逆説弁証法

実存主義って聞いたことない?

これも和訳のおそろしいところで、ことばが独り歩きしちゃっているけど

もともとは現実存在主義ってことらしい。

「実存は本質に先立つ」

ってのが、実存主義系の哲学者の考え方。

観念主義系の

本質(観念でもイデアでもなんでもいいけどさ)が優位

本質があっての現実なんだとはせずに

今手元にある現実を見つめなおして考えていこうよ

って、方向のひとたちだね。

キルケゴールさん。

カントさん、ヘーゲルさんを筆頭のドイツ観念論に

疑問を投げかけたってことで有名になっちゃった。

いまでは実存主義の創始者みたいな扱いになっちゃってる。

ドイツ観念論だけにとどまらず

それ以前からの哲学は

本質ってのがあって人間にはそれが理解できない

ってところから始まっている考えが

多かった。

唯物論にしても機械論にしても

やはり本質ってものはあるんだよって

ところがあったんだ。

本質(神でも世界でも宇宙でもいいけどさ)の中での人間のあり方が中心で

個々の人っていうか今社会で生きている人間に目を向ける思想ってのは

あまり目立たなかっように思うね。

ヘーゲルさんは弁証法で

人間の限界である命題をより真理に近づけるために

命題vs反命題をつなぐ次のステップをみつけて

上位の次元に移行することを繰り返すことによって

本質に向かおうとしたけど

キルケゴールさんは

個々の人が直面する問題(絶望ってよんでるね)は

そんな抽象論で解決されるわけないじゃない。

その直面した問題にむきあって

現実に生きているものとしてどうしたらいいのかを考えなければ

意味がないんじゃないか

って、反論したそうだ。

キルケゴールさんにとってはヘーゲルさんの考え方やその抽象的な議論は

過去の歴史だったり

人間の活動をそとから眺めているものの

はなしであって

歴史のただなかにいる人間

現実の中で生きて決断していく人間にとっては

なんの意味もなさないんだよ。

って・・・

たしかに納得できる気はするね。

キルケゴールさん

わざわざ逆説弁証法なんて書いて

ヘーゲルさんにケンカを売っているようだけど

世の中の『悲惨』が耐えられなかっただけなのかもしれない。

現実におきている問題を

『絶望』なんて名付けているぐらいだから。

ヘーゲルさんの弁証法は

真理(事実とか物自体、世界の本質でもいいかな)に近づくには

すべてのものをいったん受け入れて

そこで発生する矛盾を切り捨てるんじゃなくて

統合してより高次な次元に登ろうじゃないかっていう

「あれも、これも」受け入れようってはなしだけど

キルケゴールさんは

「あれも、これも」なんて受け入れたら

人間おかしくなっちゃうよ。

現実問題としては

「あれか、これか」ってなにかを切り捨てていくことで

自分の選択を導いていくのが

人間なんじゃないのってはなし。

その切り捨てるってのが『逆説弁証法』

なんだろうね。

死に至る病

現実の問題に直面して

なお、真実だの観念だのを突き詰めたところで

何の救済にもなりはしない。

この部分は賛否あるだろうけど

ひとつの考え方としたらまっとう

現代でも

「今日生き延びないと明日はない」

「明日の希望がなければ今日の意味はない」

なんて矛盾する論争が起きるもんね。

では、どうすれば自己救済への道が拓けるんだろう?

じつは困ったことがひとつあるんだ。

キルケゴールさん

ガチガチのキリスト教徒だったんだ。

だから宗教アレルギーのある人は

流し読みしてもらったほうがいいかも。

個々人が生きていく

『実存(現実存在)』の方向性としては

三段階のステップがあるってことらしい。

第一段階として『美的実存』。

快楽や美を求め無限の可能性に浸り感覚的に生きる段階。

これが普通の人の存在意義だよね

でもこの段階の人には挫折と絶望が待っているらしい。

第二段階として「倫理的実存」。

倫理感や正義感に基づき自己実現をはかる段階。

ぼくのまわりにはお目にかかれないけど

自分を顧みずに他者に尽くす人っているみたいだね。

でも、そんな素晴らしいひとびとだって

個の力じゃどうしようもない不条理に直面しちゃう。

ここまでは頷くことなんだけどな。

第三段階として「宗教的実存」

神と一対一で向き合うことで本来の自分を取り戻す。

ってなると、首をかしげたくなるのはぼくの不徳の至り?

やはり西洋じゃキリスト教の力が強いんだなって感心させられるよね。

でもキルケゴールさん、キリスト教会にもかみついている。

教会は「人間は罪びとである」

だからひたすら神に祈って罪をわびることで許されるようにしましょう。

なんて言ってそのひとの不安要素をとりのぞこうとするけど

それっておかしくない? って言っているんだ。

まず『罪』ってなんなのさ、って。

神様と人間って本質的に違うものじゃない。

その神様との間の『罪』ってどんなものなの

それを人間が理解できるって考えるほうが

おかしいでしょ。

そんな風に神様を人間の理解できるところまで

引きずり下ろすって不敬だとおもわないの? 

ってね。

きっと純粋なキリスト教信者だったんだよ。

でも宗教のことはさておいても

哲学を個人のこととして捉える姿勢を確立したってのは

すごいことなんじゃないかな。

タイトルとURLをコピーしました