純粋理性批判
ちょっと休憩したあとに
デカルトさんに続く難関登場。
哲学界の巨人といわれる
カントさん。
その哲学の根本にあったのは
理性によってものごとを探求しようって姿勢。
このカントさんの主張する理性ってのもわかりにくいけど
対象を理解する能力が悟性で
その理解をもとに推論を行うのが理性
ってのが一般的解釈。
バークリーさんなんかが推していた
経験論で得られる『知覚』されたもの
(知識って言ってもいいかもしれないけど)
は悟性ってことかな。
それをつなぎ合わせて考えていくのが
理性って解釈でいいのかもしれない
そう考えると
悟性をつなぎ合わせて得るものが帰納法で
理性をつなぎ合わせて得るものが演繹法
って、これは今思いついたことだから
スルーしてもらったほうがいいかもしれない・・・
はなしを戻してカントさん
理性が万能じゃないんじゃないかって考えた。
理性だけじゃない、認識能力ってものを
もういちど検討してみようよ
ってことになったわけだ。
『批判』ときくと
だれかの話に反論したり
こっそり陰で悪口を言ったり
っておもうけど
哲学(形而上学ってややこしい名前で呼ぶけど)では
知識・思想の基礎の部分の成立条件や妥当性、それに限界
(基礎付け主義の基礎の部分だね)
それらを確かめていくことを『批判』って
言うらしいんだ。
だからカントさんの一番有名な論文は
『純粋理性批判』。
いままで理性を信じてものごとをすすめていたんだけど
そこのところ(理性も認識能力も)
もういちど検討してみよう
ってことを書いた論文ってこと。
人間の理性や認識能力の限界を
ちゃんと見極めて
どこまで人間てのはものを知ることができるのか
人間の認識の及ぶ範囲ってのはどこまでなのか
それを知らなければ
ものごとを知る(捉えるかな)ことができないんじゃない?
って、ことだね。
「われわれの認識が対象に従う」のではなく
「対象がわれわれの認識に従わなければならない」。
って、カントさんのコペルニクス的転回といわれている
有名な考え方だけど。
すこしせつめいが要るよね。
『悟性』と『理性』
カントさんをはじめるまえに
もういちどおさらいをしておいたほうがいいね。
ものごと(宇宙でもいいし、身近なものでもいい)って
どうなっているのだろう?
どんなものだろう?
なになんだろう?
って単純な疑問。
いやそんなこといちいち悩まなくっても
目の前にあるからいいじゃない?
っていうのが大方の意見じゃないかな。
でも、考えてみたら不思議なことがいっぱい。
わかっているつもりにはなっているけど
ほんとうのところはちゃんと説明できない人が
ほとんどじゃない?
昔からそうだったとか
そう決まってるんだからしかたがないとかさ。
そんな単純な疑問に
真剣になって答えを出そうとするのが
哲学者たちなんだ。
哲学っていうとなんとなくわけのわからないことを
考えているように捉えられているけどそんなことはないんだよ。
哲学だけじゃない、自然科学だっておなじように
みんながあたりまえだっておもっていることに
疑問を持つところからはじまっているんだから
研究をしている人たちってすごいとおもうよ。
あたりまえとおもうこと
たとえば目の前にリンゴがあるとしようよ。
あっ、りんごがある。
で、完結するよね。
あるひとにとってはおいしそうだったり
きれいだなだったり
当たったら痛いな、ってのもあるかな。
万有引力を発見した人もいるらしいけど。
なぜそこにリンゴがあるのがわかるのか?
もちろん、見えてるから。
匂っているからとか触ってみたからってのもある。
リンゴがそこにあることが大前提。
それをひとの五感のなにか(複数でも可)が
感知する。
感知したものを信号として精神(あえて脳とは言わないけど)に
伝えるわけだ。
その時伝えられるのは
大きさ、形、色、その他の特徴。
それを精神のほうが
その組み合わせはリンゴだねって
判断する。
その判断能力が『悟性』って言われているもの。
だから『悟性』ってのは
収集したデータを整理していく能力なのかもしれない
そして、そのデータをつなぎ合わせて
推論をたてるのが『理性』って呼ばれる。
赤いリンゴは『悟性』
おいしそうなリンゴは『理性』
ってところかな。
もっともこれはぼくの勝手な思い込み。
この『悟性』と『理性』って
よく出てくるけど
それこそひとによって使い方が違うから
こまるんだよな。
世界そのものと人間の知る世界
カントさん。
『悟性』には『感性』と『悟性』の二つがある。
『理性』にも、もともと持っている理性と
経験によって得られた理性があるってした。
リンゴで続けるなら
赤い、丸い、手のひらサイズ
ってのが『感性』
その情報を統一して
『リンゴ』ってするのが『悟性』
おいしそうなリンゴは経験によって得られた
理性だろうね。
万有引力はもともと持っている理性かな?
ひとってのはまず『感性』でものと接し
つづいて『悟性』でそのものを理解する。
ものの特性やそこから発展する事象を
経験と本来持っている『理性』で認識していく
ってことになる。
って、まあわからなくもないよね。
『純粋理性批判』に書いてあるのは
世界そのものと人間が見ている世界って同じなの?
人間ってどうやってものごとを考えているの?
哲学でも自然科学でもどうしても答えの出ないものがあるのはなぜなの?
そのあたりのこと。
世界そのものと人間が見ている世界については
世界って漠然としたものが
人間という観測器を通して
はじめて人間の理解できる世界になる
ってことだね。
言い換えれば
世界そのものと人間の理解できる世界ってのは
別物だということになっちゃう。
カントさんは世界そのものを
『物自体』。
人間が理解している世界を
『現象』と呼んでいる。
人間はどうやってものを考えているのか?
理屈は簡単。
入力されたものを分類わけして
それらをつなぎ合わせて理解している
ということになるよね。
入力は簡単。
外部観測器官ってものが
人間には備わっている。
手だったり、目だったり、鼻、耳、舌。
ようは身体の外側にあるものに触る器官は
生まれた時から持っている。
むずかしいのは分類。
なんでもかんでもファイルにぶち込んじゃったら
しゅうしゅうがつかなくなるもんね。
だから人間のもともと持っていると思われる
考え方のルールをカントさんは探して
12個のルールをみつけた。
わかりやすいところでいえば『因果律』。
人って結果を見たときに
どうしても『なぜ』そうなったのかって
考えるじゃない。
そういったルールに基づいて
人は『知識』をため込んでいくものだそうだ。
そしてそのため込んだ知識をつないで
まとめあげて人間はものを考えていく。
そこまで深く考えているなんて
じつは人って偉いのかもしれないね。
答えの出ない問題
最後に残った問題。
哲学でも自然科学でもどうしても答えの出ないものが
あるのはなぜなの?
これはむずかしい。
まずひとつは観測能力の限界があるには違いない。
人間が答えを出すためには
悟性が仕入れてきた知識を
理性がまとめあげて結論を探し出すって
作業をしているとするならば
材料がそろわないと結論が出せないよね。
食材がないのに料理をつくれってことだもの。
ただ、どれほど知識があっても
どうしても矛盾の生じるような問題も出てくる。
極端なはなしだけど
「宇宙に始まりがあるか無いか」って
問題を考えてみよう。
もし、始まりがあったとすれば
それ以前には何もなかったことになる。
とすると、いまある存在(宇宙でも空でもいいけどさ)
と『無』である存在とが同じ舞台に上がることになっちゃう。
これはあきらかに矛盾だよね。
もし、始まりがなかったとすれば
今までず~っと過去があるわけじゃん。
現在まで『無限の時間』がながれていることになるよね。
だとすると、『無限の時間』と今の『有限の時間』が
同じ舞台に上がってしまう。
これもやっぱりおかしくないかな?
ねっ、もし十分な知識があったとしても
人間の認識能力(理性)じゃ
とらえきれないものがあると思わない?
だからカントさんは言ったんだ。
人間の理解できるものは
人間が認識した世界であって
世界そのものは理解できないんだよって。
人間が『感性』『悟性』を総動員して得たものは
『理性』でまとめることはできるけど
世界そのものを『理性』でどうにかできることはない。
それが『理性』の限界だってしちゃった。
「われわれの認識が対象に従う」のではなく
「対象がわれわれの認識に従わなければならない」って
すごくかっこいい言葉だけど
もしかしたら、敗北宣言なのかもしれないんだよ。