現代への序章

雑学を収集しようじゃないか雑学
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   ミル

さあ、現代に突入してみよう。

実際のところ近代から現代へのつなぎ目が

どこにあるのかなんてはっきりした線が引いてあるわけじゃない。

ある朝目覚めたら現代でしたなんて

そんなことがあるわけがないもんね。

過去を振り返った時にはじめて

あぁ、あの時が分岐点だったんだなってわかるけど

その流れのど真ん中にいる人たちにとっては

日々おなじような時が流れていく間に

いつのまにか違う景色の場所に来ちゃった

そんな感じだと思うよ。

現代哲学のはじまりとしては

キルケゴールさんとかマルクスさんあたりが

出てくるとは思うんだけど

そこに行き着くまでにはつなぎ役がいるんだよね。

だから現代の幕開けでミルさんあたりを

いってみよう。

突端がガチガチの政治学者って思われている

ミルさんってのもどうかと思うかもしれないけど

このひとの本質って、すこしおもしろいんだよ。

ベンサムさんっておぼえているかな?

功利主義の発案者として有名

例の「最大多数の最大幸福」を提唱した人。

ミルさん

子供のころからベンサムさんの功利主義を

父親から叩き込まれていたらしい。

どうやらお父さんは

ベンサムさん信者だったみたいだね。

神童といってもいいくらい

ミルさんは優秀だったらしいけど

やはり詰め込みすぎはよくなかったてことじゃないかな。

もうひとつこの時代

理性偏重、合理主義に対して感受性や主観を大事にしよう

というロマン主義がはびこっていた。

このあたりがまじりあったのかのしれない。

ミルさんの功利主義はベンサムさんとは

少し異なっていく。

行為の正しさの基準を

功利を生み出すかどうかで決める。

そこのところはおなじなんだ。

でも、功利の捉え方がすこしちがうんだよな。

ベンサムさんが単純に快楽と苦を数値化することで

結果を得ようとしたのに対して

ミルさんは人間としての快楽ってものを追求した。

人間としての快楽と動物(生物)としての快楽は

違うもんだよってね。

『幸福』ってのは

人間としての快楽が得られることが必要なんだって。

だから、人間としての快楽を得られるのならば

その行為は正しいってことになるんだ。

このあたりはベンサムさんの『快楽』の部分を変えただけで

理論の骨子はおなじだね。

『自由論』って論文の中の危害の原理ってので

他者に危害を加えない限りは人は望むことを

好きにやってもいい自由を持っている

という主張もしている。

この主張の賛同者はリバタリアンっていわれて

結構多いんだよ。

当然、他者が幸福を追求するのを

邪魔することを自由とは認められないし

他者に危害を与えない行為を抑圧することも

自由な幸福追求をじゃましてるからダメ。

自由ってのは個人が幸福を追求するための条件

と同時に、社会全体の幸福を向上させるための

条件でしかないんだよってことだね。

ぼくがミルさんを好きなのは

その思想よりもかれの残した言葉。

「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。

満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。

そして愚者や豚の意見がこれと違っていても

それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである」

って、胸が痛いなぁ。

   フォイエルバッハ

ドイツ観念論っておぼえているかな?

カントさんから始まって

ヘーゲルさんで終わるっていわれているけど

やはりヘーゲルさんよりカントさんのほうが

知名度ははるかに大きいね。

ヘーゲルさんは『弁証法』の確立って

ところで目立ってはいるけど

哲学史の中ではカントさんが

観念論的な考え方の

雄とされる。

(もっとも、ドイツ観念論の人たちには

あまり、持ち上げてはもらえなかったみたいだけど)

当時ドイツでは、どうしてもキリスト教から

離れきれないところがあったらしい。

だから観念論の『観念』の部分が

イエスさんと切り離して考えるカントさんの

受けが悪かったんだろうね。

そういった意味ではヘーゲルさんも

神=イエスじゃなかったみたいだけど

その教えを継いだ弟子たちは

観念論=キリスト教に

走ってしまったらしい。

で、今回のフォイエルバッハさん。

かれもあとで出てくるマルクスさんと

ヘーゲルさん、極端に言えばカントさんとの

つなぎ役といってもいいんじゃないかな。

やはりはじめはヘーゲルさんに傾倒していたようなんだけど

あるときからヘーゲルさんの

弟子たちが唱えるキリスト=観念に

疑問を持ち始めた。

たしかに、『観念』って

下手に使うとなんでもありになっちゃうからね。

目の前にひろがる世界(自然)ってなんなの?

って単純明快な疑問。

フォイエルバッハさん、その回答として

世の中には考える人間とそれを取り巻く世界(自然)しかないんだよ。

神なんて言っているけど、けっきょくそれって

人間が考え出しただけのものでしかない

ってバッサリ切っちゃった。

もともとあった論争なんだけど

このあたりから西洋哲学では

観念っていう精神世界と

現実の世界(自然)のどちらが優位に立つべきかっていう

観念論vs唯物論という二大陣営による戦い(ってほど大したもんじゃないけどね)

が勃発したみたいなんだ。

フォイエルバッハさん

けっしてヘーゲルさんを切り捨てたわけじゃないんだよ。

現実の世界をそのまま理解して

観念という名目の空想的な関連付けをしさえしなければ

弁証法ってのは新たな世界への道しるべになりうる

って考えていたみたいだから。

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