経験論

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   イギリス経験論

プラトンさんからデカルトさんにかけて

どちらかといえばぼくの好みで

『理性』ってのを前面に押し出した考え方を

追いかけてきたけど

前にも書いたように

もう一つの考え方もあるんだ。

『演繹法』と『帰納法』という物事の考え方の

方法ってのがあるのは書いたけど

これって『基礎付け主義』を是とした哲学の

その基礎についての二大派閥みたいなもんなんだ。

もういちどおさらいしておくね。

ものごとを考えるのに「これは正しい」って

土台を持たないと先に進めないよね。

土台、足場、基準点

そういった基礎ってどこにあるんだろう?

っていうのが『基礎付け主義』のスタートライン。

その基礎を見つける方法ってどうすればいいの?

ってので意見が分かれてきたわけだ。

これってギリシャ哲学の時代から

延々と続いている考え方の違いなんだけど

デカルトさんの時代あたりで

はっきりと区別されるようになってきたんだね。

プラトンさん~デカルトさんラインの

知識の源泉を理性に求めようじゃないかとする

理性主義(合理主義)とか

認識は直観的に得られるとする直観主義や神秘主義

なんかのいわく『形而上学』を大陸合理論。

哲学者としてより政治学者として有名すぎるから

あえて書かなかったジョン・ロックってひとがいるんだけど

ソフィストあたり~ロックさんラインの

客観的で公的な実験、観察を重視して

そこから物事の本質を見極めようよという経験主義をイギリス経験論。

この二大派閥の戦い(そんな大げさなもんじゃないけど)が

延々と続いてきたってこと。

経験主義って聞くと

個人の経験や体験で物事を判断するっておもわれるけど

そうじゃないんだ。

そんな主観的なものじゃなくって

ちゃんと客観的な『知識』から導き出されるものが

正しいんだよってこと。

知識の源泉を理性に求めるってことは

ものごとの本質を人間は見極められるってことを

基礎にしようという『演繹法』に

客観的な知識を基礎にするってことは

『帰納法』ってことになるってことだね。

これってどちらも理屈が通っているだけに

いつまでたっても解決しない論争ってことなんだ。

ほんとうにギリシャ時代からこの論争は続いているんだよ。

ギリシア哲学だったらイオニア学派あたりの自然哲学

ソフィスト、デモクリトスさんらの原子論者

キュレネ派、キュニコス派、エピクロス派なんかが経験論派。

ピタゴラス学派、エレア派

その影響を受けていたプラトンさんあたりは合理論派。

イデアなんてもろに理性偏重でしょ。

中世では圧倒的な勢力を誇っていたスコラ学

なんてのは合理論がメイン。

そんな中でもオックスフォード学派なんてのは

数学や実験を重視した経験論。

覚えていないかもしれないけど

『イドラ』を提唱した帰納法の父って言われているベーコンさんは

とうぜん経験論派。

少し遅れて出てくるデカルトさんは

バリバリの合理主義。

みたいにね。

   バークリー

パスカルさんやスピノザさんが

どうしても(肯定するにしても反発するにしても)

デカルトさんの影響から抜けきれなかったのは

生きた時代がほんの少しでもかぶっていたからかもしれない。

でも、バークリーさんはもう少し後の時代の人。

だから、デカルトさんは過去の偉人の一人

ってかんじじゃなかったのかな。

この時代、学問ってのはやはり教会あたりに

集中していたかんじがするね。

哲学者や科学者ってひとには神学関連の人が多い。

バークリーさんも聖職者だったそうだ。

バークリーさん

デカルトさんの『生得論』

(精神ってのは独立した実体なんだから生得的な観念があるよって考え)

を批判して

観念ってのは経験から得られるんだよっていう

ロックさんやベーコンさんの『経験論』を

支持したひと。

ひとつ注意しておかなくちゃいけないのは

ほとんどのひとはじぶんが見たり聞いたりしたものは

そこにあるって思っている。

でもそれってただの主観でしかないんだ。

個人の経験や体験を基礎に据えることは

『経験論』じゃなくて『素朴実在論』って呼ばれるらしいから

いっしょにすると『経験論』信奉者から

怒られるから気を付けようね。

なにか存在があるとしようよ。

理性主義の考え方だと

その存在を判断する能力が精神のなかにあって

その存在の本質まで精神は判断できるってことになる。

でも、経験主義だとその存在を知覚することで

はじめてそのものを知ることになって

過去に知覚した情報と照らし合わせてはじめてその存在を判断することができる。

って、わかるかな?

すくなくともぼくにはぼんやりとしたことしか

わからないけど。

デカルトさんやもっと前ならプラトンさんなんかは

ものってものがまずは存在していて、それを知覚しているって考え。

デカルトさんはその知覚って本当?

ほんとうにそこにものはあるの?

って、疑いまくって最終考えてる自分はいるよね

ってところに落ち着いたんだよね。

プラトンさんあたりだともののなかには

本質ってのがあって、知覚できてるものは

模倣品だよってかんじかな。

バークリーさんは

ものがある(存在する)ってのは知覚されてはじめて

成立するものだよって主張した。

だから当然感知されないものは

存在しないんだってことになる。

バークリーさん流に言えば

存在ってのは自分の精神のなかに存在するだけで

この宇宙(世界)という物理座標上に存在してるものじゃないんだよ

ってことなんだろうね。

もうひとつ、知覚している個々のものは心の中にあるけど

物事の本質なんてものはないんだよ、とも言っている。

本質なんてつかむことは人の精神ではできないんだからって。

ただ、みんな言葉というアイテムを使って

わかったような気がしてるだけなんだよってね。

世の中にある実体ってのは心に知覚されたものと『神』だけ

って結論付けるんだけど

さて、その『神』って

どの『神』さんなんだろう?

   ヒューム

ぼくの大好きなデカルトさん

疑って疑って『考えているじぶん』という足場を見つけた。

きっとそれだけで満足しちゃったんだ

その先の世界を再構築するところでは現在でも

少々疑問の声がちらほらと流れてるもんね。

バークリーさんもだったけど、いまから書いていくヒュームさん。

デカルトさんの少し前のロックさんの

経験論をベースにはしているけど

デカルトさんの『明晰判明』ってのを意識しているような気がするな。

観念(イデア・本質ってところかな)ってのはなんだろう?

無理やりこじつけたら外部観測器官(目・耳・鼻・・・)でとらえたものを

じぶんのなかで再構築して形作られたものってことじゃないかな

(より分かりにくかったりして)。

経験主義はその観念ってのは外から入ってきた情報を

過去からの積み重ねと照らし合わせて

はじめてできあがるものだよって主張し

理性主義はもともと人には観念を

理解する能力があるんだよって主張してるよね。

ヒュームさん。

バークリーさんと同時代の経験主義者なんだけど

経験主義で得られたものはあくまで

「そうじゃないかな?」「そうらしい」ってところまでしかいかないんだよ

なんて発表しちゃうから懐疑主義者とも呼ばれている。

外部観測器官から入ってくる情報を『印象』と呼んで

印象がまず感覚を刺激して、その感覚を人は記憶していく。

印象が消えた後でも知覚(記憶でもいいけど)された感覚が残る

それを『観念』と呼ぶ。

よくひとは因果関係とか原因と結果なんていうけど

観念ってのは印象の記憶だから

観念は印象を再現することができちゃう。

その印象の記憶と照らし合わせて

ひとは新しい印象を判断する生き物でしかないんだよな。

だから、繰り返し体験的に理解したものを勝手につなぎ合わせて

『因果』を成立させているだけのことで

過去の現実と未来の出来事の間に

必然的な関係なんかあるわけがない。

『原因』と『結果』なんてものは経験に基づいて

未来を推測しているだけのはなしなんだ

ってことらしい。

科学なんていうものは経験上の思い込みを絶対化しているに過ぎない

なんてことまで言いきってしまったんだよ。

「疑わしい」とか「確からしい」とか

その問いに答えられる絶対的な『解』は存在しない。

観測によって常に繰り返されることは

「確からしい」として考えてもいいけどねって。

こうなると哲学の方向性って

むずかしくなるよね。

でも、この「らしい」ってのは

ひとつの鍵にはなるかもしれないな。

   ルソー

ちょって休憩

と言っていいのかどうかわからないけど

ものごとの本質がどうのこうのから

少し離れてみよう。

もっともこの人も経験論者なんだけどね。

ぼくにとっては政治だったり組織論なんかは

あまり興味がないんだけど

そこを避けて通ると全体の流れが見えにくくなるから

少々ご勘弁を。

時代によってひとの興味が

思想的なものに向かうのか、技術的なものに向かうのか

方向性がある程度きまっちゃうようにはいつも思うんだ。

でも、どの時代にでも

方向性に逆らう人ってのはいるもんだって

まえに書いた気がするけど

ルソーさんはバークリーさんやヒュームさんと

ほぼ同時代の人。

でもその思想の方向性は

技術系(彼の場合は政治系だね)に走った人。

『リヴァイアサン』を提唱したホッブスさんをおぼえているかな?

「万人は万人に対して狼」といって

ひとはもともと他人から搾取する生き物だよ

だからそのコントロールができる

強大な力と意思を持った『国家』がいるんだ

って書いていた人。

ルソーさんは人間が闘争状態になるのは

もともと持っているもんじゃなくて

社会性をおびたからなんだ

って言っている。

個で生きている間は

目の前のことでせいいっぱいで

それこそみちばたを歩いている野良猫のように

日々精いっぱい暮らしていたはずだ。

だけど、一人じゃできないことに出会ったとき

ほかの人間の助けを必要としたとき

二人分の蓄えをもっていれば他人を使えるじゃんって、気づいたときに

これまでの平等は消えて

私有が導入され、労働が必要となって

奴隷状態と悲惨とが出来上がったんだ。

てのが主張の本筋。

じゃあ使役するほうはそうだとしても

使役されるほうの個の意志ってどうなるの?

って疑問が出てくるよね。

それに対しては

個々の個人の意志(特殊意志って言うんだって)を集めて

そこから各々の反目する意志を相殺して

皆が不満があっても納得できそうな共通のポイントを見つける

それが社会的利益なんだ、とした。

この納得できそうな共通のポイント

ってのがポイント

(シャレじゃないよ)。

ルソーさん『社会契約論』のなかで書いているのは

個の権利を共同体にゆだねることによって

個は共同体の分割した権利を持つ

(マンションの区分所有みたいなもんだね)

それが国家の始まり。

国家は市民共通の意志を集めて、相殺して

『一般意志』(これが納得できそうな共通のポイントらしい)

ってのをみつけ、それを意志決定の主体におく。

一般意志の具体的働きは法であり

国家の意思は立法権、国家の力は執行権

執行人が政府、国家と市民を繋ぐ公的代理人を公僕とするってさ。

なんとなく近代国家風になってきたんじゃないかな。

でもこの時代はまだ王国・貴族制。

そのなかでのこの考え方って素晴らしいとは思うよ。

でも、この『社会契約論』

けっして民主主義賛歌じゃない。

君主制でも共和制でもそれ以外の政体でも

国家を担う統治者は

国民の一般意志に服従しないといけないよ

ってことを主張したんだけどね。

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