デジタル・アナログ

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アナログとデジタルってなんだ?

普通に使っていることばに

デジタルとアナログってのがあるよね。

みんな本当のところは分かっているんだろうけど

どうしてもデジタル最先端

アナログ時代遅れ

もしくはデジタル冷たい

アナログ暖かいっていう使い方をする風潮がある。

連続した情報と飛び飛びの情報

そんな風に理解しているけど

じっさいのところはって聞かれると

はっきりした答えが出せないのが辛いんだよな。

ぼくはアナログ人間だからって

なんとなく自慢げに言う人もいるし

あいつはアナログだからって

相手を否定することに使う人もいるんだから

こまったもんだ。

そんな時は調べてみるに限る。

まずは語源。

*デジタル→ラテン語で指「digitus

*アナログ→「類比」「類似」を意味する「analogy

なるほど指を折って数えるってのはなんとなくデジタルだって

言われると納得しちゃう。

類比・類似ってのはもうひとつピンとこないかな。

似ているものを何かに例えるってことらしいけど

(例えば時間を角度で表せば時計になるね)

これって「連続した量を他の連続した量で表示すること」ってのが

アナログの定義にあるから

そのことを指しているのかもしれない。

その他の分類の書いてみよう。

*デジタル:正確さ・非連続・切れ目のある・部分・理性

*アナログ:曖昧さ・連続。切れ目のない・全体・感性

*デジタル:無機的 

*アナログ:有機的 

う~ん わかったようなわからないような。

もうひとつあるね

正確、データ保存が容易vs感覚的にわかりやすいか否かって分類が。

どうも定義として言葉に表すとあいまいになってくるみたい。

定義として書いてあるのは

アナログってのは連続した量を他の連続した量で

表示することらしい。

で、デジタルってのは

連続している信号を一定の間隔でぶつ切りして

ひとつひとつぶつ切り信号を繋げていくってことだろうね。

情報を『離散信号』に分解してもう一度つなぎなおすって書いてあるけど

そうなると『離散信号』ってなに? ってまた調べなくっちゃ。

要するに連続していないぶつ切りの信号ってことでいいとしよう。

もっとややこしい言い方をすれば

『量子化』ってのもあるよ。

量子ってのは物理量の最小単位ってことらしい。

量子化ってのは量子を規定したうえで

その整数倍として表すことになるって書いてあるんだけど

なんのことだ?

極端な言い方をすれば

アナログってのは線で描かれたグラフで

デジタルは棒グラフってことでどうだろう?

視覚のアナログとデジタル

どうも言葉ってのは哲学も同じだったけど

業界内でだけ通じればいいって感じで使われてないかな。

たしかにものごとに対応する言葉を

名札みたいに付けていかないと情報交換に齟齬が出るってのは

わからないこともないけど

仲間内でだけ通じることばで結束を固めるって

まるで思春期の若者みたいな気もするんだよね。

文句を言っても仕方がないから

わかりやすいところでいってみよう。

人によって五感のうちどこに重点が置かれるかは

違うだろうけど

多くの人が視覚ってのに重点を置いているんじゃないかな。

本当はいろんな感覚が集まって

情報を理解しているんだろうけど

ひとまずは視覚に絞って

アナログとデジタルを考えてみよう。

テレビの映像ってデジタルだよね。

パラパラ漫画と同じ理屈

映画だってゲームだって動画は結局パラパラ漫画だと思えば

いいとおもうよ。

この場合のデジタル表示は

2か所で使われている。

一つ目は決められた時間(一秒でも一時間でもいいよ)に

何コマの表示がされるかというコマ数。

もう一つは表示される画像が幾つの点(ドット)で構成されているかという

写真でいえば画素数ってもんだね。

人間が見ている自然界の世界をアナログだとしようよ。

映画やテレビで見ている世界をデジタル。

このふたつの差異は人間にわかるのか?

っていうのがデジタルとアナログの違いってことにならないかな。

もしわからないのなら情報をアナログ情報で記録することに

意味なんてないもんね。

結論から言えばどうやら人間の観測器には

認識限界ドット(点)数はあるようなんだ。

でも目に写る映像は限界値を超えたドット数であっても

その違いがわかるという不思議なことが起こっているみたいなんだよな。

どうやら目で認識する情報にはドットの認識力と

『実在感』を感知する機能とがあるんじゃないかといわれている。

これは一枚の画像の場合。

今度は動画で考えてみよう。

テレビはだいたい一秒間に30枚(地デジは60枚かな)の画像を流すことによって

静止画が動いて見えるようにながされているそうだ。

これも人間の認識限界秒間コマ数が30枚だっていう説があるからなんだけど

ここにもどうやら『実在感』の感知機能がありそうだよ。

今じゃ一秒60枚や120枚の動画も流されることがあるし

じっさい、見比べるとその違いがわかるような気はする。

(もっとも「気がする」だけだけど)

なんとなくだけどなめらかというか

ヌルヌルしてるというかぐらいだけどね。

だからデジタル画像とアナログ画像は厳密には

人間は見分けることができるってことになるんだけど

問題が無いわけじゃない。

昼間の太陽のもとで見る景色と

夜間の証明のもとで見る景色。

たしかに昼と夜だと見え方が違うのは当然だけど

昼間の景色をアナログだとすると

夜の景色はデジタルのはずなんだよ。

たとえば夜間の照明が蛍光灯(今じゃあまりないけど)だとすると

60ヘルツの蛍光灯だと秒間120回の点灯してるわけだから

120コマの動画を見ているようなものに

なっているはずなんだよな。

人間の認識能力

人間の観測器に認識能力の限界値があるのかないのか。

さっき書いたみたいに単純にドット認識能力としての限界と

『実在感』を感知する能力。

このふたつが共同して外部世界を認識しているとすると

どちらか片方の認識能力だけがわかったからといって

そこを限界点とするわけにもいかなくなるんだよな。

今は視覚だけではなしているけどその他の五感も同じこと。

視覚や聴覚、味覚や臭覚なんて分けているけど

じっさいのところ人間の外部観測器官なんて

触覚を利用して情報を入力しているわけなんだから

各々の観測器官(目や耳や舌や鼻だよね)の構造を研究すれば

ある程度までは物理的限界はわかるもんね。

物理的な認識能力の限界は実際

実験・研究の結果、ある程度まで分かってはいるみたい。

個体差はあるとしてもその限界ラインの幅は

確定しているといってもいいんじゃないかな。

ただ問題はもうひとつの『実在感』のほう。

これがなかなか難しい。

人間はどうやって外部情報を入力できるのか?

これってさんざん書いてきたある意味哲学の命題になってくるんだよね。

感性→悟性→理性のラインが形成されていることが

正しいとしてみようよ。

目や耳の観測器官は感性の担当。

その情報を脳に送るのは悟性の担当。

受け入れた信号を理解するのは理性の担当。

(これはあまりにも簡素化しすぎているから軽く流してもらったほうが良いけど)

哲学用語を使わなければ

目や耳で受け取った情報を

神経が伝えて

脳で判断する

ってことでもいい。

そこでまたまた問題。

現在言われている説によると

感性(目や耳で情報を受け取る)はアナログ情報を受信する。

悟性(神経の伝達)はデジタル情報を伝達する。

理性(脳の判断)はアナログ形式で構成される。

ってことになっているらしい。

どうやら情報をいちいちクロック同期させて変換しているってことだね。

なぜそんな面倒くさいことをやっているんだろう?

ひょっとしたら根本的な間違いがあるんじゃないかな。

『実在感』がアナログ情報をつかんでいると考えるから

おかしくなるのかも。

じつはアナログ情報なんてものはどこにも存在していないのかもしれない。

たとえば太陽光のもとで見える景色も

蛍光灯のもとで見えている景色みたいに

じつはパラパラ漫画なのかもしれないよ。

一枚の絵のドット数が限りなく多くて

秒間のコマ数も限りなく多い

そんなデジタル情報で世の中は満たされているのかもしれないね。

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