弁証法

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   ソクラテスからの問答法

演繹・帰納・推論・類推

ってのはたぶん人間に備わっている

理性の能力に名前を付けただけだと思うよ。

ひとは考えるときに

いちいちどうやって考えているか

考えているわけじゃないでしょう。

ただ、問題は人間ってやつは集団で生きている

どうしてもコミュニケーションってのが

必要になる生き物だってこと。

そのときに相手に伝える

(説得するかもしれないけど)のに

名前の付いた方法論があれば

どことなくかっこいいじゃないってことで

わざわざ名前を付けたんじゃないかな。

病気だって病名が付けば

わかったような気になるじゃない。

それと同じだとおもうよ。

名前が付いたからって治るわけじゃないけどね。

そういった意味では

もっともコミュニケーション重視の観点から

派生した方法論が『弁証法』じゃないかな。

現代じゃヘーゲルさんやマルクスさんの弁証法って言われているけど

歴史上表立って出てくるのはやはりギリシャ時代なんだ。

有名なところではソクラテスさんの

『問答法』だよね。

ソクラテスさん。

一つの考え方が心に生まれると

どうしてもその中に矛盾が発生することがある。

その矛盾を解き明かして真理に近づくためには

その考え方に疑問を投げかけ、議論・問答したらいいじゃない。

ってことで対話・問答ってのは大切だよって

したそうだ。

この対話・問答については

それ以前から『弁論術』ってのが確立されていたんだ。

ギリシャのシチリアあたりは政変が激しかったから

土地や権利の所有権に絡む訴訟がすごく多かったんだって。

だからどちらかといえば法廷闘争用の

技術だったんだけどね。

それが議会での弁論や例のソフィストたちの道具として

確立されたってことなんだ。

だから弁論術は

真理を追究しようとする姿勢から

すこしずれて発達していったのも

わかるような気がする。

今ならディベートとか

弁護士さんがつかうテクニックってところかな。

   プラトン・アリストテレスの評価

ソクラテスさんの考え方は

いつものようにプラトンさん、アリストテレスさんによって

昇華されていく。

プラトンさん。

ソフィストたちの弁論術は

真実ではなく、真実らしさに重点をおいて

聴衆の耳に心地よいことしか言っていない。

ただの経験・慣れでしかないじゃないか

って指摘した。

アリストテレスさんは

それはそうだけど

弁論術に哲学のために使えるってのを求めなくてもいいんじゃない?

ってした。

だから、このあたりで

弁論術は哲学手法のひとつではなく

大衆をターゲットにした実践的言論の技術に

方向性をシフトしたんだよね。

アリストテレスさんが弁論術を

技術論っていったのは

どうも皮肉っぽく思えるのはぼくの偏見かな?

さすがに論理的ないいまわしはされているよ。

でも言葉の端々ににじみ出ているのは

否めないような気がするんだけど。

かれの弁論術の定義をすこしだけ

書いてみるね。

弁論術とはそれぞれの対象に関して可能な説得手段を観察する能力である。

それには立証・配列・措辞が必要とされる。

かなめとなるのは立証であり

弁論家の性格(エートス)

聴衆の感情(パトス)

言論そのものの論理(ロゴス)が立証には含まれる。

論理には弁論術的帰納とよばれる例

弁論術的推論とよばれるエンテューメーマ

(虚偽の推論と感情操作によって聴衆の見解を操作する技術)がある。

蓋然的、常識的命題を前提に用いるため

しばしば本質的な前提部分が省略されることはある。

この不完全な三段論法であるエンテューメーマが

最有力の立証手段として重視される。

これってあきらかに

弁論術自体をばかにしているようにしか

おもえないんだけどな。

   ヘーゲル 弁証法

弁論術ってのは昔からあったのは間違いない。

哲学がどうのこうのという前に

ひととひととが意見を交わすとき

とうぜんみんな使っている手法にしか過ぎないんだから。

この弁論術の手法を確立していくのが

ヘーゲルさん。

そのあとをマルクスさんが整理して

現在の弁証法ができあがったってことになっているね。

プラトンさんは弁論術には二種類あるんだよって言っている。

ひとつは適当にひとをその場だけで

納得(やりこめるでもいいけどさ)させる弁論術。

もうひとつは対象の自然本性に沿って概念を総合・分析する

緻密な推論の技術・能力としての弁論術。

前者のほうは聴衆をよろこばせるだけの

ただの言葉遊びみたいなものだけど

後者はうまく使えば哲学の探求に使える技術かもしれないと言って

弁論術の可能性を認めてはいるんだ。

弁論術の目的ってのは

対立する概念をぶつけあって

どちらの言い分が正しいのかって

「まわりが判定」するってところに

あると思うんだ。

だから、個人の思考を自分だけで深めていくために使うには

それ相応の技術と才能がいる。

ひとりで将棋を指しているみたいなものなんだから

よほどの天才でないと現状からの飛躍は

求められないよね。

もっとも世の中には

それができる天才もいるんだからすごいもんだけど。

なにより聴衆の評価が勝敗になるってことは

ゲームみたいなもんでけっして思索とはいえないんじゃないだろうか。

真理の探究に勝ち負けや名声・金儲けがからむと

ろくなもんじゃないっておもうんだけど。

だから、ゲームみたいに勝ち負けじゃない弁論術。

じぶんひとりでも思考を深める弁論術。

弁論術から弁証法へとその体系を変えていったのが

ヘーゲルさんなんじゃないかな?

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