デカルト 1

雑学を収集しようじゃないか雑学
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   懐疑主義

おまたせしました。

いよいよデカルトさんに取り掛かってみよう。

もっともあくまでぼくの独断と偏見

あまりうのみにはしないでほしいな。

この人はぜひ自分で研究してほしい。

読み解けば読み解くほどいろいろな見え方がするから。

さて、デカルトさんといえばまず出てくるのが

「われ思う、ゆえにわれあり」。

ぼくの帽子にも

cogito ergo sumって書いてある

(ミーハーだって笑ってやってください)。

懐疑主義っていうのか、すべてを疑うことからはじめたデカルトさん

どんどん疑って疑って片っ端からじぶんの身体も含めて

「本当にあるの? 本当に正しいの?」って疑っていく。

かれの考え方のひとつに

すこしでも疑いのあるものは却下ってのがあるものだから

デカルトさんのまわりには何一つ絶対に確実だってものが

なくなってしまうことになっちゃった。

これは困った。

でもちょっと待てよ

すべてが偽物じゃないか? ってじぶんが考えている間は

疑っているじぶんってのはあるんじゃない?

ってところに行き着いたわけだ。

「じぶんは考えているよね、ってことは考えているじぶんってのはいるじゃないか」

これがたぶん「われ思う、ゆえにわれあり」の

出発点だったんじゃないかな。

ひとまず足場が見つかれば

そこから先に進めるようになる。

考えているからじぶんはいる

ってのはそれこそ考えるたびにじぶんの存在が肯定されることになるね。

というところから、その肯定された存在が

あきらかに認知できるものは真実だっていう

『明晰判明』という手法で

それまでの手探り状態から抜け出そうとしたみたい。

明晰判明ってのは

精神に疑う余地がなくて現れる認識を『明晰』

明晰と同時に他からも明確に区別される認識を『判明』

っていうらしい。

そのことを自分に課してデカルトさんは進んでいく。

でも、もともと懐疑の人

この明晰判明に至るのにも苦労したみたいだよ。

余談だけど

ラテン語で「われ思う、ゆえにわれあり」ってのは

デカルトさんが最初に書いたわけじゃない。

なんといってもこの言葉が出てくる論文は

フランス語で書かれてたんだものね。

   方法序説 明晰判明

デカルトさん

子供のころイエズス会の学校で勉強していた。

この学校は前述のスコラ学派。

デカルトさんは特に数学が好きだったそうだ。

前にも書いていたけど

『哲学』ってのはなんだろう?

って問いに、わりとシンプルに答えてくれている。

哲学全体ってのは一本の木だよ

根っこは形而上学、幹に自然学

そこから諸々の学問が枝分かれしていき

機械学、医学、道徳なんていう果実が実る。

諸学問ってのは哲学の成果、枝に実る果実なんだよって。

そういわれればなんとなく納得してしまいそうだね。

だから考え、研究することはすべて哲学だってことにしておこう。

デカルトさん、じぶんの考えていった道筋を

極力わかりやすく伝えるために

『方法序説』って本にまとめている。

最終の哲学的考察ってのは後の『省察』に書かれたものと

ほとんど同じだけど

省察が論文だとしたら方法序説は教科書みたいなもんだね。

デカルトさんがどうやって考えて

どんなふうに生きてきて

どんなふうに結論を出そうとしたのか。

ガイド書みたいなもんだよ。

だからぼくみたいに専門職じゃない人間には

方法序説のほうがとっつきやすいんだ。

『方法序説』の一部を紹介しておこう。

デカルトさんは学校で可能な限り勉強したけど

じぶんの疑問が一向に解決していないって感じてしまったんだ。

そこで、学校で教わる学問ってのは

どれも有益じゃあるけどその大本(本質ってやつかな)

の部分(基盤だね)がはっきり解明されているわけじゃないんじゃないの?

だったら無意味だよね。

って思ってしまったんだよな。

このあたりの発想はソクラテスさんに似ているかもしれない。

つづいて

みんなで考えたり、大多数の意見なんてのは

はっきり言って意味ないじゃん。

じぶんが正しいと思ったことがすべてだよね。

って考える。

ここは『問答法』とは一線を画すかな。

でもじぶんが正しいと思っているなんて

間違ったら独りよがりの考えになるから

すくなくとも正しいと思うための基準として

4つのルールをつくったわけだ。

1:じぶんが明証的(自分でも他からでも論理的に正しいってことかな)に

真理だと認めない限り正しいとしない。

2:全体を漠然ととらえようとせずに

極力小さい部分にわけて考えていくこと。

3:単純な・確実なものから広げて複雑なものへ至る。

4:結果が出たら見落としがないか、間違いがないか

すべてを再チェックすること。

同じようなことをアインシュタインさんも言っていたような気がするけど

ぼくの好きな人たちって同じような思考回路なのかもしれない。

こうして諸学問の再チェックをしていったデカルトさん

そこそこじぶんが学んできた学問に納得がいったらしい。

だけど、かれが諸科学の基本とした哲学の原理が

見いだせていないこと気が付いてしまったんだよね。

   方法序説 「われ思う、ゆえにわれあり」

哲学の原理

これってとてつもなく難しいもの。

一朝一夕には見つかるわけないってことを

デカルトさんもわかっていたんだよね。

だからそれを考える間なんとか

生活するためにはどうしようって考えた。

そこでじぶんに決めたことがある。

1:国の法律や習慣には従おう。

2:じぶんで決めたことはやろうじゃないか。

3:まわりどうみられるかよりじぶんの欲望のほうを優先しよう。

生きていくためには生活基盤がなきゃどうしようもないけど

じぶんがじぶんに決めた方法で真理ってものの認識に近づくことが

じぶんにとってほんとうやりたいことじゃないか

って、決めたわけだ。

それから何年(9年ぐらいって言われているけど)も

いろいろなものを見て聞いて考えて

いよいよ哲学とはなんだろうって考えることになる。

ここからは「われ思う、ゆえにわれあり」に行き着くわけだね。

とにかくすべてを疑ってみる

そしてすこしでも疑うところがあれば排除する

って簡単に言うけどデカルトさんのすごいのはその徹底ぶり。

方法的懐疑っていわれるものの一例をあげると

じぶんが見ている、聞いていると思っているもの

そう外部観測器官から入ってくる情報はしばしば間違うので排除。

「痛い」とか「甘い」なんて感覚も疑わしいから排除。

自分が目覚めているなんて自覚だって判断する指標がないんだから排除。

今のところ正しいとされている科学的に証明されているものでも

将来間違っている可能性が残されているので排除。

じぶんが信じている『神』(この場合はイエス様なのかな?)でさえ

じつは自分をだまそうとしている可能性があるから排除。

そして排除、排除としていった結果

「疑っているのはわたしだよね。ということ存在としてはあるんじゃないかな?

すくなくとも、疑うってことをしているあいだはわたしは存在してるよね」

という足場を見つけたってこと。

そこから例の『明晰判明』ってのを使って

種々の現象にトライしていく。

もともとデカルトさんの目的は

『哲学』っていうものの原理とは何か?

ってものを見極めることなんだから

この足場をみつけたってことである意味完結したとしてもいいと思うよ。

そのあとの『明晰判明』で導き出してきた

果実たちが少々まとを外していたとしても

それはそれでご愛敬ってことにしてあげようじゃないか。

ただ、「われ思う、ゆえにわれあり」には

いくつかの付随してしまう問題が出てくるのは

しかたがないよね

だから次は

神の存在証明、機械論、二元論

にすこしだけ触れてみようと思う。

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