そして、デカルト

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   二元論

だらだらと書いてきたけど

とにもかくにもぼくがデカルトさんを評価するのは

じつは現在ではあまり肯定的に受け入れられていない

二元論なんだ。

肉体の外(肉体も含むんだけどね)の世界と

考えているじぶんという内の世界があるってしたところだね。

そして外的なものを疑い続けて

なにもかもがじつは無いものかもしれないとしても

じぶんという内の世界だけは存在している

ってところ。

人間(セカンド)ってのは矛盾した生き物

空と意、ものっていうか存在と心ってのがまじりあって

存在しているっておかしいでしょ。

っていうのがぼくの出発点。

けっしてデカルトさんと肩を並べるつもりなんか無いよ

(そんな恐れ多いこと・・・)。

でも突拍子もないって感じていた考え方に

過去の偉人が少しは賛同してくれているかもって

こんなうれしいことはないよね。

この世界は『時』・『空』・『意』で構成されている。

『時』と『空』はこの宇宙というドラマの主役

お互い干渉しながらも独立したもの。

『意』はドラマの観客。

どちらにも干渉せずにただ淡々と観ていく存在。

観るというより計測するといったほうが正しいかもしれない。

『わたし』という呼称をしたとき

その『わたし』は物理的実体の身体のことを指すのか

物理的実体を持たない心のことを指すのか。

ねっ、観客と演者がおなじステージにいるって

どこかおかしいとおもわない?

(もっとも最近じゃ観客参加型の演劇もあるみたいだけど)

本来なら空と意(身体と心かな)は別々のもんってことじゃないと

おかしいはずなんだ。

突き詰めていけば

じぶんのいる『世界』ってものと

『じぶん』ってのは相いれるわけがないじゃないかってことになる。

なんとなく納得してしまうのは

ぼくが世間とずれているからかもしれないけどね。

物理的実体である身体が心に影響を与えるってのは

あたりまえのはなし。

心は空(物理的実体)を観測してるんだから

身体に変化があれば当然心は反応するはずなんだ。

でも、心の変化が物理的実体に影響を及ぼす

この考え方ってすごいことなんだよ。

今、実体二元論があまり重視されていないのは

心という物理的実体のないものには

物理的実体のあるものに影響をあたえることができない

と言われているからなんだけど

もしそれが叶うならばなにかが見えてくる気がするんだけどな。

『気』の持ちようで病気が治るとか言うんじゃなくて(根性論はきらいなんだ)

心が心だけでこの世界に干渉できるって

すてきだとおもうんだけどな。

   エーテル

さいごにもうひとつ

デカルトさんが出した説で

いまでは賛成意見がほとんど無いらしい結論をひとつ。

『渦動説』とそこから発展する『エーテル』だけは

すこしだけ書いておきたいな。

星を考えてほしい。

なぜ星(天体って言えばいいのかな)がうごくんだろう?

だって宇宙が真空状態だとしたら

力なんて働くなるんじゃない?

そうなると初めに動いていたものは

同じ方向に同じスピードで動き続けるはずだよね。

初めに止まっていたものは延々と止まっているはず。

ものがうごくってのは直接押してやる(力が加わる)

からで、途中でスピードや方向が変わるっておかしくない?

って疑問の答え。

今だったらニュートンさんあたりからはじまった

離れた物にも影響を与える力があるよ

っていう説(遠隔作用説)が主流になっているんだけど

デカルトさんはじつは真空なんてない

真空に見えるところにはおもいきり小さな物質が詰まっていて

それで力が伝わるんだよ

っていう説(近接作用説)を唱えていたんだ。

詰まっている物質は後のフックさんによって

『エーテル』呼ばれるんだけどね。

これが『渦動説』って言われているらしいんだけど

この『エーテル』ってのを物質

宇宙空間に真空の代わりにつまっている微小な物質ってみなしちゃえば

どうしても天体の運動に齟齬が出ちゃうんだよね。

そして現在までの観測装置ではこのエーテルってのは検出できていない。

だから、ほぼ物質としての『エーテル』は否定されているとみていいんだ。

でも、アインシュタインさんもローレンツさんも

物質の集まりとしての『エーテル』論には否定的だけど

その存在自体は否定してないだよ。

ぼくとしては『エーテル』ってのが

あるんじゃないかって思っている。

ぼくらのいう『物理的実体』のあるもんじゃないだろうとは思うよ。

でも、意(精神でも心でもなんでもいいけどさ)のように

物理的実体じゃないけど実在しているものが

世界中満たしているって考えてもよくないかな?

だって、光は粒子と波だってことになってるんでしょ。

粒子だけならまだわからないこともないけど

波って真空中(なんにもないところ)で

どうやって伝わっていくんだろうっておもわない?

お日様の光が地球にまでやってくるのって

むずかしそうな気がするんだけどな。

   なんとなくの、まとめ

ただたんに個人的な趣向なんだけどさ

デカルトさんって好きなんだ。

だからしつこく書いてきてしまったけど

そろそろおわりにしよう。

『懐疑論』っていう

疑って疑ってとことん疑いぬいて

やっとじぶんの立っている足元を見つけた。

これってやはり称賛に価すると思うよ。

ぼくにとってそれだけで十分。

なんとなくじぶんの方向性を認めてもらえたような気がするから。

実際その後の『明晰判明』で導き出していく

デカルトさん流に言えば『哲学の果実』のぶぶんは

くびをかしげたくなるところもあるけど

そこはご愛敬ってことにしておこう。

じっさい現代に比べれば実験装置も観測装置も

未熟だったんだろうし

現在正しいとされてることだって

未来の人たちから見れば

あの時代の実験装置や観測装置って

ちゃちだったんだって言われるかもしれないもんね。

ただ、考え方の根本

心と身体の分離

エーテル

このふたつはぼくの思索のベースに加えておこうとおもうんだ。

心と身体の分離は

もともと『意』と『空』の分離ってことで

考えには入れていたけど

それに少し肉付けされたような気がするな。

すこし考えるための『言葉』に

厚みが出てきたかもしれない。

『空』ってのは物理的実体。

全体に広がっている『意』はエーテル。

ぼくのなかに閉じ込められている『意』は

『われ』ってことかもしれないね。

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