散歩の途中

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セカンドの特異性 Ⅰ

人というのはなんだろう? 身体が人なのか心が人なのか? その二つが絡み合ったものが人だなんていうのは無責任な意見。どちらかが滅びた時残った方はどうなる? 体が壊れれば心も壊れるのか? 心が壊れれば体も壊れるのか? 健康寿命なんて言われるけど健康とは身体だけなのか? 心に健康は無いのか? う~ん わからないなぁ。
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セカンドと世界

セカンド 身近な言葉で言えばぼくたち人類 そんな訳の分からない存在が必要とされるのには意味がある。人の生には意味があるなんてはなしじゃない。ただ色と時 言い換えれば宇宙の構造上仕方なく生み出された存在がセカンド(人間)ってこと。個の人間には意味は無い ただ人類という種は世界にとって意味があるってことなんだろうね。
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セカンドとしての人類 Ⅱ

生物としては攻防にわたって三流としか思えない人類というものが今現在地上の覇権を担っている。たしかに氷河期の影響は大きかった。氷河期による覇者の入れ替え 大陸が陸続き アフリカの乾燥による樹上生活の困難。だがその中でたかが道具と火だけで短期間に地上の覇権をにぎったというのどう考えても異常な出来事だとしか言いようがない。
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セカンドとしての人類 Ⅰ

『人』っていうのは何だろう。今の感覚で捉えられる人・人類という姿はたかだか1万年ぐらいのスパン。ホモ・サピエンスという種なら10~30万年。ホモ属としてなら200万年。二足歩行を主なら4~500万年だけど 道具と火を主ならホモ属と同じ200万年。どちらにしても200万年という短時間でここまで覇権を握ったってことは異常だよね。
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進化の最終形

生物の進化の過程で時代の覇者が次代でも覇者であり続けたという歴史はまずないと言える。どちらかと言えばその時代の弱者とされる種が次代の覇者となるケースが多い。それでも最弱層の生命形態が覇者となることはまずあり得ない。その中で人類という最弱に位置づけられたはずの生物種が現在覇者の立場にいるということは奇跡でしかないだろう。
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セカンド

時と色と意 この三つ巴で世界は成り立っているってことにしておこう。ただ個々の星々に存在する意の量が歪になるこれもそんなものだとしておこう。開放時間は一律  量には多少がある。だとすれば量に合わせた解放手段が必要。その量があまりにも多い場合特別な解放装置が必要 その解放装置の名を『セカンド』と呼ぶ ということらしい。
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散歩の世界

世界(宇宙)は誤って出来てしまった それが「散歩の途中」の世界観。誤りの結果 時と色(物質)在るということになる。時と色はその誤りの修正のためお互いを そして己自体を消滅させるために動き出す。ただ 存在の無いものは消滅できない。そして存在するためには世界を確定させる必要が。どうしようもない矛盾を抱えて世界は動いていく。
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散歩の途中 前提

以前 相対性理論を書くのに勉強が追いつかなくて『散歩の途中』のメモを繋ぎで書いたけど漠然とし過ぎてわからなかったよね。だから再稿という形で書き直したけど やはり骨組みだけでももう少し詳しく書いておかないとなんのことかわからないような気がしてきた。まずはこの世界(宇宙)の構成 『色』と『時』から始めてみようかな。
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そして新天地 Ⅱ(再稿)

初期の『散歩の途中』はここまでだったね。相対性理論を書きかけて行き詰って仕方が無く書いていたってこと。だけど 結局はぼくの一番興味あるテーマはこの『散歩の途中』。以前に軽く触れていた部分をもう少し突っ込んで書いておかないとどうしても全体が分からなくなるから困ったもんだ。だから『散歩の途中』をもう少し続けてみよう。
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そして新天地 Ⅰ(再稿)

外界(自然)と喧嘩別れしなければ過当な生存戦略は必要なかった。進化という外界に流されて生きることを拒否した瞬間から生物の悲劇が始まったのかもしれない。たしかにそのおかげでより高次の存在に進んだように見える だが高次=幸福とは限らないのが世の常。もっとも 生命というものを手にした瞬間から悲劇が始まっていたとも言えるのだが。
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