根拠のない仮説
一縷の希望
散歩の途中は物語でしかない。『わたし』と『エオ』の問答集で構成されている。だけどプロローグとエピローグには小説風の描写がある。最後にはやはりその部分を入れておこう。セカンドである「わたし」の立ち位置はどこになるのか。そして「わたし」というセカンドとファーストの関係は。語られてはいないが 示唆はされているのかもしれない。
セカンドと宇宙
知覚できないものを認識する能力。それがどういった意味を持つのか 結局なんら確証がは出て来ない。セカンドと呼ばれるぼくたち人類はただの使い捨ての道具。これは納得してもいい。ただ無理やり作られた装置だけに予期せぬ危険性を秘めている。そして その危険性は宇宙に対してであって個人にとっては新たな可能性なのかもしれない。
ひとまずまとめてみよう
人類という存在はセカンドというものに分類される高性能排水装置 納得するかしないかは関係なく憶測としてはおかしくない。そして高性能すぎるがゆえにイレギュラーを起こす可能性があり そのイレギュラーを防ぐためにセーフティ装置が設けられているというのもわかる。ただ そのイレギュラーが必ずしも欠陥で無いとしたらどうだろう?
ファースト Ⅱ
「知覚できないものを認識する能力」 そうとう特異なの能力かもしれない。われわれにとって知覚できないということは『無い』に等しい。知覚できない存在を認識するということは無から存在を生成してしまうということになりかねないか? その力に目覚めさせないために35億年という時間を使って進化の刷り込みが行われているのかもしれない。
ファースト Ⅰ
われわれ人類がセカンドと呼ばれる排水装置の最終形だとしよう。効率だけで考えれば最大効率の排水装置を使えば物事は単純に進むはず。では なぜ初めからその手段を使わないのか。高度な機器になればなるほど取り扱いが難しくなり 暴走を起こさないための制御装置が必要になるからだ。われわれセカンドの制御装置 それが進化の刷り込み。
死ってなんだろう
死後の世界はどういったものなのか。意見や感想は多いけど今のところ確定した事実出て来ないね。だからひとまずの結論としては死や臨死体験の情報は今のところ意味が無いってことで放置しようよ。ただ 多くの死に臨んだ(本人談だけど)救急救命士のマシュー・オライリーさんのプレゼンは少し考えさせられたんだ。だからすこしだけ紹介してみよう。
死後の世界
人が死んだらどうなるのか? それを宗教(一部のだけど)の観点から考えてみよう。政治都合で変わたんじゃなく本来の多くの宗教に共通しているのが人は死んだらいったんどこかに集められるらしいんだ。その後天国か地獄か極楽か もう一度現生に戻るかそれを決められるんだと。ただその中で涅槃という別次元に旅立つっていうのもあるけど。
だれの為に観測するのか?
死というものは人間にとって大きな考察対象の一つじゃないだろうか。ただ生と死の境界にはあまりにも巨大な段差がある。というより死について研究・観測しようにも方法が無いんだ。直接観測はもちろん 間接観測でさえできないんだからどうしようもない。科学は生きている人間についての研究。生きている人間にしか観測手段を持たないんだから。
思考と感情
人間の精神は意だってことにしてみよう。人間 特に個の人間に存在意義が無い。そう言われても反論の仕様は無いだろう。だけどその存在意義が無いものがいろいろ考えたり怒ったり笑ったり そんな感情を発露させるのはなぜなのか。意が記録装置とすると簡単な話。感情や想いなんていうのはただの観測記録でしかない ってことかもしれない。
セカンドの特異性 Ⅱ
生物という存在の目的は単純 必要以上に詰め込まれた水を時間内に排出するためにつくられた排水装置と考えればいい。排水装置の性能の優劣が生物の複雑化に相当するし その中でも最終能力を持つ排水装置がセカンド(人間)ということ。ただ高性能の機能を持つ装置を使用するのにはそれなりのリスクを伴う。人間は矛盾の塊 当たり前の話だ。