またまた休憩

雑学を収集しようじゃないか雑学
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疲れた~

ハイデガーさんまでようやく来れたよ。

古代ギリシャあたりからドイツ観念論、経験論あたりまでは

つまりながらでもおもしろく書いていたんだけど

プラグマティズムあたりから

どうしても書くのが遅くなっちゃた。

単純に興味の方向が違ってきたってことなんだろうね

哲学で実務方面に舵が切られると

ぼくの欲しがっている情報とは違ってくるような気がするんだよな。

では何が欲しいのかって言われると困るんだけど

今書いているのは誰かに知識を与えようなんて大それたもんじゃない。

ただぼくが楽しむだけのための

言ってみれば趣味みたいなもんだから単純に好き嫌いだけで

考えたっていいことにしてよ。

偉そうに過去の人たちのことを書いているけど

もちろん専門家じゃない。

だから、そのひとたちのことを調べながら

書くことによってじぶんに何か発見があればいいなって

そんな感じなんだよ。

なんといってもぼくは文系と呼ばれる人種

正確なデータより漠然とした流れを感じたいだけなんだ。

歴史だって流れの中の歴史ってのは興味があるけど

正確な年数を覚えさせられる歴史の授業なんて

大嫌いだったんだから。

アレキサンダー大王が遠征したのが

334ねんでも400年でも

だいたいそのあたりでいいと思うんだけどな。

現代になってくると

曰く『科学的思考法』っていうのかな

最近よく聞くんだけど『エビデンス』っていうの?

ようは証拠に基づいてってのが重要視されてくる。

そして定義が先に来てその過程なんてのは

あまり重要視されないって気がする。

「観察、実験などの探究的活動を通じて・・・」

ってのが科学的方法らしい。

「証拠に依拠していること

仮説と理論を使用しているということ

また用いられる論理の種類に共通性があること」

これも科学的手法の定義だよね。

これってその通りだと思うよ

思うけどなんだかなぁ って思ってしまう。

それも大切だと思うんだけど

もともと哲学なんて実証のむずかしい問題を

考えているじゃない。

だからそこに科学的方法を持ち込むのは

悪いとは言わないけどさ状況によっては行き詰まっちゃうような

気がしないでもないんだけどな。

本当にこのごろ『エビデンス』ってことばを

みんな使いたがるけど

あまり好きになれないんだ。

対未来とか初めての経験なんてものに対応データなんて

あるわけないと思うんだけどね。

過去やそれまで得た知識ってのは大切だと思うけど

それだけに捉われていたら先には進めない問題も

山ほどあるような気がするんだ。

ちょっと気分を変えてみよう

それでも自分が知っていたつもりのことを

こうやって書いていくと

新しい発見があるんだよ。

新しい発見って言うとすこしニュアンスが違うかもしれない。

思い込んでいた知識ってのが間違っていた

もしくは誤解していたってことに出会うんだ。

デカルトさんなんかもそうだったけど

今あたまの中でグルグル回っているのは

ハイデガーさんの『存在者』と『現存在』。

さすがに学者さんこの切り取り方はすごいもんだね。

ぼくの求めている自分ってなんだろうと

そんなぼくでも日々の生活や日常の中で

どうしても避けて通れない他人との接点のことを

うまく説明してくれていることばを教えてくれたんだから。

その考えで行くと

プラグマティズム前の哲学の多くは

自分ってなに? っていう『現存在』寄りの哲学で

以後、現代の哲学は『存在者』寄りってことになるのかもしれない。

気がもうひとつ乗り切らないのは

そんな単純なことなのかもね。

だから、すこし哲学って枠組みから離れるのも

いいかもしれないって思うんだ。

じっさいのところ哲学を調べようと思っていたわけじゃない

ぼくって何? からはじまって

宇宙の構成要素として前提に置いた

『時』『空』『意』のうちの『意』ってなんだろう? 

そんな軽い気持ちで哲学に入っただけなんだから。

どうせ答えなんか出ない問題。

行き当たりばったり調べていったほうが良いかもしれないよね。

自然科学っておもしろそう

さっきの科学的方法ってのを

いちばん使っていそうな気がするのが

自然科学の世界だと思っているんだ。

実験とデータと数字。

それらの実証データに基づいて論理的に語られるもの

それこそが自然科学

そう思ってたんだけどどうやら最先端の自然科学はそうでもないのかもしれない。

考えてみると古代ギリシャの哲学者たちってのは

なんでも屋さんだったんだよね。

とにかく世の中の不思議を『なぜ?』『なぜ?』『なぜ?』って

こどもみたいに考えまくっていたんじゃないかな。

そのなかにはもちろん自分ってなんだろう?

人間ってなんだろう? からはじまって

自然ってなんだろう?

宇宙ってなんだろう? というぐあいに

思考の輪は広がっていたはずだよね。

もちろん今みたいに実験装置や観測装置が

整っていない状態なんだから

あたまの中での実験や観測が主だったみたいだけど

考えてみれば今の実験装置や観測装置だって最終形ってわけじゃない。

まだまだ思考実験が幅を利かせている分野も

あるんだよな。

有名な相対性理論だって観測から結果を導き出したっていうより

さきに結論ありきで、後に観測が追いついたってのが

じっさいのところ。

なにより量子力学なんて観測結果が確率でしか出ないなんて

とんでもないんだから。

哲学がどんどん一般に言われる『科学的方法』ってのに

縛られていくのに比較して

自然科学のほうがより想像力の幅が広がっているんじゃないかな。

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