またまた、ちょっと休憩

雑学を収集しようじゃないか雑学
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   内なる意と外なる空

デカルトさんもカントさんも

共通点がひとつ。

人間の肉体という器の内と外では

異なる世界が広がっているっていうのが

大前提としてあるような気がするね。

これってぼくの「思考の散歩」の前提でもあるわけだけど

もういちど書いておこう。

じつはあまり前に書いたものを読み返していないから

なんども同じことを書いてしまうかもしれないけど

そこのところは許してね。

ぼくの出発点は『ぼく』ってのは

なんだろうってところ。

身体がぼくなのか、心がぼくなのか

心といったってそれは『脳』なのかそれ以外の『魂』ってやつなのか

それともまだ思いもつかない『なにか』なのか。

通常考えられるのは

身体と心(魂でも何でもいいけどさ)が合体して

ぼくなんだよって考え方。

でもこれってすこしおかしくないかな。

『空』と『意』が合体する、『演者』と『観客』が合体する

だからおかしいんだよって言う前に

身体と心のどっちが主導権を握っているのかって

問題があるじゃない。

『アムロ』が主人公なのか『ガンダム』が主人公なのか

『シンジくん』が主人公なのか『EVA初号機』が主人公なのか

って問題なんだ。

主人公としては搭乗者である人間のはずなんだけど

作品としてのメインアイテムは乗り物のほうだよね。

それでも「アムロ行きます!」と言っても

「ガンダム行きます!」って言わないように思うな。

人間の『死』ってのを考えてみよう。

これって身体が壊れるってことだと思わない?

もしガンダムやエバが壊れても

操縦者は緊急脱出で助かるってこともあるんじゃないかな。

ではそのあと助かった操縦者はどこにいくんだろう?

社会の問題や人間同士の問題

経済にしても国家や法理論にしても

戦争にしたってその理屈は

『乗り物』の理屈でしかないような気がするんだ。

『乗り物』の理論と『搭乗者』の理論

それらがごっちゃになって語られるから

世の中のはなしがややこしくなっているような気がするんだけどな。

   命と尊厳

はなしがどこへ向かっているのか

書いているほうにも見当がつかないんだけど

今回はただの脱線ってことで大目に見てね。

どうやら世の中がなんとなく停滞ムードなんで

溜まっているみたいなんだ。

ただの愚痴の吐き出しだと思ってください。

でもね、ロボットと搭乗者の関係って

デカルトさんやカントさんの

『感性』『悟性』『理性』の関係が分かりやすいような気がするんだ。

大昔のロボットものだとコックピットみたいなものに

搭乗者が乗っていて

じぶんの視力を頼りに操縦するってのもあったけど

現代じゃそれはいくらなんでも索敵能力としては

貧相すぎるよね。

だから光学センサーや電子センサー

要はカメラだったりレーダーだったりで

索敵していく。

この外部センサー(人間だったら五感だね)に

捉えられる情報が『感性』。

その電子データを分析表示するのが『悟性』

(デカルトさんだとこのふたつで『悟性』ってことになるけど)。

そのデータから攻撃・退避なんかの判断をするのが『理性』

ってことになるのかな。

カントさんはそのデータを分析するコンピュータがあって

その結果をもとに判断するのが搭乗者。

デカルトさんだったらそのデータからの搭乗者の結論を

合議の上で判断を下すってところかもしれないね。

さて、ロボットと搭乗者だとあまりに唐突過ぎるから

車と運転手ってことにしよう。

『車』が主か『運転手』が主かってことだね。

人と人とのコミュニケーションっていうけど

車と車同士のコミュニケーションだったら

クラクションを鳴らすとかライトを点滅させるとかに

なるわけじゃない。

軽く一回クラクションを鳴らせば

「ありがとう」。

長く大きくならせば

「このやろう」。

なんども鳴らせば

「××すぞ」。

なんてね。

じっさい人間の使っている言語なんて

そんなもんだと思うよ。

クラクションにしたってその地域、時代によって

違う意味を持つことだってあるだろうし

それって言語が違う(日本語・英語etc

ってのと同じじゃない?

外見の善し悪しだって

乗っている人間なんか関係なしだもんね。

ただ単に車がカッコいいかどうかだけの問題

乗っている人間なんて二の次になるのは

当然の話。

「人は外見じゃないよ、中身だよ」なんてのは

ある程度の外見があっての話だもんね。

その外見にしたって

荷物が多く積めるタイプが好きな人がいれば

スタイリッシュなタイプが好きな人も。

ひたすら大きな車が好きな人も

コンパクトカーが好きな人も。

レトロな車が好きな人がいれば

なかにはボロボロの車が好きな人も・・・

いればいいな。

時代や流行によっても変わるしね。

でも、乗っている人間に乗る車は選べない。

生まれた時からあてがわれた車を使い続けなくっちゃいけないんだよ。

さてあなたの車はスポーツカーなのか、実用車なのか

高級車なのか、大衆車なのか・・・

日々洗車して磨き上げているのか

カスタマイズしているのか

ほったらかしなのか・・・

なかに乗っている人間の値打ちって

車で決まるわけじゃないと思うけど

社会とか組織、国にしたって

車のためにあるんだよ。

なにより人の命が大事っていうときの『命』って

車が壊れないことだし

『人々の幸福』って言うことは

車が走りやすいってことなんだ。

けっして乗っている人間の『幸福』

乗っている人間の『命』が

主体にはならないんだよな。

ちなみに・・・

車の損傷を『命』の危機

乗っている人間の損傷を『尊厳』の危機

って言うんだよ。

って、これはぼくの独断。

   ベンサム

さすがに愚痴だけを書いていたら

怒られそうだから

ひとりだけ紹介しておこう。

きっとこのひとの「最大多数の最大幸福」ってのを読んで

こんな愚痴が出たのかもしれないんだけど。

思想の深いところをのぞくって作業をいていくと

政治やら経済の実社会での技術論は

すごく軽く思えてくるからふしぎなもんだね。

人間のことを考えているのに

急に車の話になるみたいなもんだからかも。

じっさいは、日々生きていくことに

バタバタしてるし

思想の深淵なんて覗いても

実生活にはなんの役にも立たないんだけどさ。

ベンサムさん。

『功利主義』の提唱者。

『功利主義』って言ってもピンと来ないかもしれないけど

「最大多数の最大幸福」って聞いたら

わかるかもしれない。

このひと

哲学者や科学者というより

法学者と言ったほうがわかりやすいとおもうな。

人はどうしたいのか?

その人を束ねる国家はどうすればよいのか?

言い換えれば昔から言われている

幸せって何だろう? を数値化しようとしたんだ。

ひとがうごく動機はなにか? 

快楽と苦痛しかないじゃないか。

人が求めているのは快楽が多いことで

逆説的に言えば苦痛が少ないことでもあるんだよ。

だから、快楽を得られることは『善』であり

苦痛を与えられることは『悪』なんだ、って。

これって、まっとうなことだよね。

その考え方を『功利主義』って呼ぶんだけど

いくつか難しい問題がある。

ひとつは快・苦を数値で表すこと。

快楽の強さや持続性

その他7項目の査定項目をつくって

快楽の総量から苦痛の総量をひいた数字で

道徳や法律を作りましょう

って言うんだけど

その数値をだれが決めるの?

個々の人が同じ状況にあったとしてもそれが同じ数字なの?

大多数が幸福だと感じるのならば少数者は苦痛を与えられてもいいの?

エトセトラ・エトセトラ・・・

考え方はいいと思うんだけど

それを国家や組織の基本方針にするのはどうだろうって考えちゃうよね。

ジョークでよく出てくるんだけど

「最大多数の最大幸福、そして誰も幸せになりませんでした」

ってことにならないかな。

ひょっとしたらだけど

AIが機能するようになって

コンピュータがこの『功利主義』を使いこなせたら

うまくいくかもしれないけど・・・

できれば、ぼくはそのまえに

この世からいなくなっていたいけどね。

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