1000年の眠りから目覚めて

雑学を収集しようじゃないか雑学
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     近世哲学の始まり

大航海時代がはじまると

どうなるんだろう?

まずは経済の中心に変化がおきてくる。

高速道路が通ったせいで

さびれてしまった町みたいなもの。

シルクロードや地中海がメイン幹線から

ローカル幹線になってしまったってことだね。

世界史の舞台が大きく変わったってことなんだ。

経済の中心が文化の中心だとすると

大航海以後の文化の中心は

ポルトガル・スペイン・イギリス

あたりが主力となってくる。

もちろん時々刻々その勢力は移動していくんだけど。

まだあるよ。

大航海時代は新天地発掘の時代。

新天地が見つかるということは

それまでの経済にも影響を与えるし(ドイツの銀鉱山がつぶれたなんてのは有名だね)

とうぜん新しい情報・知識もはいってくることになる。

新しい知識はものの考え方を再構築させるには

もってこい(変化の要因のひとつが知識)。

それまで盲信していたものに疑問が芽生えるのも当然。

ルターさんが

1517年に『95ヶ条の論題』ってのを

教会に突きつけたのだって

コロンブスさんがアメリカに

到着して25年も経ってないもんね。

こうして哲学の主流も

この時代から刻々と変化していく。

本来は権力者の都合のいいように

語られていた絶対神を

懐疑の目で見るところから始まったのかもしれないけど

その矛先はギリシャ哲学まで向かっていったようなんだ。

なんといっても技術・知識が格段にふえていった時代。

大航海には奇跡や神秘より

じっさいに運営される技術・知識が不可欠。

良く言えば現実的に、悪く言えば散文的に

哲学も移行していく。

『知覚できないものを認識する能力』

ってのに疑問がなげかけられたってところかもしれないね。

ただ、世の中の流れなんて振り子みたいなもの

片方に揺れればかならず反動が来るんだけど。

意見Aがあれば必ず反対意見A’があって

そこから次の展開が

そしてその展開にも反対意見があって・・・

プラトンさんから引き継がれた

弁証法はこれまでのところ正しい道をはしっているみたい。

哲学を科学の一分野とみなせば

哲学華やかなりしころの古代。

哲学不毛の時代の中世。

そして哲学百花繚乱の近世に至る

ってとこかもしれないね。

     ルネサンスの影響

古代ギリシャ時代の『真実』ってなんだろう?

今風に言えば『事実』と『真実』って?

ようは、本質って何だろうねって一生懸命考えていた時代から

すべてを『神』にゆだねることにした哲学空白期間。

この空白期間って長かったよね。

1000年以上の停滞ってなかなか歴史上でも

みられないもんだよ。

たしかに技術も科学も芸術も

それなりに変化はしたんだろうけど

その変化って微々たるもんじゃないかな。

どうやら人類の進化(進歩かな)ってのは

なだらかな曲線を描いていくものじゃないのかもしれない。

たしかに個の人間にしたって

なだらかに成長していくってことはないもんね。

あるとき激動の変化があって次のステップへ

しばらくはその段階でだらだらしながら

また次の激動で次のステップへって

動いているとおもわない?

もっともその激動で移っていく先のステップが

かならずしも上っていくとは限らないけど。

とくに歳を取っていくと

どんどん崖を滑り落ちていくような気になるから

こまるんだよな。

また脱線しちゃったけどこのルネッサンスの時代は

人類の歴史を次のステップへ移行させたことは

たしかじゃないかな。

それが良い方向だったのか、衰退の方向だったのか

今でも結論は出てないけど・・・

「勝負は下駄をはくまでわからない」って博打の格言だけど

では下駄をはくのはいつなんだろう?

って疑問も併せ持っちゃうんだから困ったもんだ。

とにかくこのルネッサンスの時代で

哲学の方向が変わったような気がしないでもない。

個を中心にしていた思索が

類を中心にした思索が多くなっていくような気が・・・

要するにぼくはどうしたらいいんだろうから

ぼくたちはどうすればいいんだろうってなったってことだよね。

もちろん学問としては

それが正しいとは思うんだけど

ぼく個人としては

なんだかすこしずれていったような気がしないでもないんだけどね。

人間の『なぜ?』や『どうして?』という

単純な疑問に答えるために

技術論や方法論で考えるって

なにか違うような気がするんだけど

それ以外に方法論がないのも事実なんだよな。

やはりこの辺りが人間の限界ってやつかもしれないね。

とにかくここまで来たんだから

もうすこし雑学を集めてみようか。

まず手始めにベーコンさんあたりから

いってみよう。

     ベーコン(帰納法)

ベーコンって調べると

料理のレシピがずらずらと

でもこのベーコンさんは食べるベーコンじゃないよ

フランシス・ベーコンっていう

1500年~1600年にかけての人物

本来はあまりぱっとしない

(とはいっても中核にはいたんだけどね)

政治屋さん

最も今では

デカルトさんの「演繹法」とベーコンさんの「帰納法」

なんて分類されるぐらい哲学方面で有名になっている。

「知識は力なり」ってかなり有名な言葉があるけど実際にあるものをみて、考えて

そこから推測できた知識をつかってみんなの役に立てようよ

っていう「帰納法」の土台を作ったってことだね。

帰納法も演繹法もアリストテレスさんが

考え方の方法として先に言っていたけど

元になる事実や前提があいまいだったんだ。

だって、何度も言うけど

ギリシャ時代に十分な実験や観測って

むずかしかったもんね。

この時代になってやっと観測技術や実験装置が整備されてきた。

現代に比べりゃまだまだ不足かもしれないけどね。

ベーコンさんも自分が、ではなく

将来に学問の壮大な体系化を目指そうとしていたみたいだよ。

『帰納法』に『演繹法』

ぼくにはもう一つすっきりわかっているわけじゃないから

一度まとめてみたいとは思うけど

単純に言えば

確かめられる一個一個の事実から全体像(一般命題っていうのかな)を

導き出すのが帰納法

全体像(一般命題だね)から一個一個はこうなっているに違いないって

推論するのが演繹法

ってことになるのかな。

ベーコンさんを面白いと思うのは

その帰納法を妨げるものに注意を喚起しているところなんだ。

『イドラ』って聞いたことある?

     ベーコン(イドラ)

イドラってのは『偶像』『幻影』なんて訳されている。

ラテン語では『偶像』だけど

英語の『アイドル』の語源って言ったほうがわかりやすいかもね。

誤解や先入観、あるいは偏見のことを言うらしいよ。

どれだけしっかり観測しようとしても

人間ってのは思い込みや色眼鏡で

物事を見てしまうんだよ

ってのをしっかり考えていたんだ。

だからその錯誤ってのをおこさないように

要因を分析、理論を確立しておこうじゃないかってのが

イドラ論。

じゃあ、どんなイドラがあるのか?

ちゃんとベーコンさんは分類している。

1:種族のイドラ(もともと人に備わっているイドラ)

感覚の錯覚、本性にもとづく偏見、共通してある誤り。

人類(生物でもいいけど)がもともと持っている本質からくる偏見ってやつかな。

それと外部観測器官(目とか耳とか鼻とか・・・)の脆弱さからくる錯覚・偏見。

2:洞窟のイドラ(個々の経験からくるイドラ)

個人の性癖・習慣教育、生まれ育ちなんかの狭い経験。

育った場所や時代なんかもそうだね。

そこからくる錯覚・偏見。

3:市場のイドラ(不完全の情報伝達からくるイドラ)

言葉ってのは考える基本にされている。

そのくせ言語ってのが不完全

とくに社会生活や他者との交わりというコミュニケーションツールとしての

不正確、不適当な規定や使用でおこる錯覚・偏見。

4:劇場のイドラ(権威によるイドラ)

過去の偉大といわれる思想家たちの思想や学説

権威や伝統を常識としてとらえる錯覚・偏見。

思い当たることだらけだね。

同じものが目の前にあっても

人によって見え方がちがうだろうし

生まれた場所や時代、育った環境によって

それぞれの常識や正義ってちがうものだし

ことばなんて伝言ゲーム

始めと終わりじゃかけはなれている。

まったくおなじことばが伝わったとしても

そのことばの意味がひとによってみんなちがうだろうし。

偉いさんがこう言っているとか

昔の人はこうだったとか

本に書いてあるから正しいとかもあるもんね。

『進化の刷り込み』と『社会・時代の刷り込み』。

これだけはよほどしっかり考えておかないといけない

ってことだよな。

―――真実は常に無知なるものを可笑しがらせるーーー

ってだれか言ってなかったっけ。

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