memento mori

自問自答

抽象概念 Ⅰ

人間が『考える』ってことはどういう過程で行われるのか? その一つの考え方にヒュームさんなんかの『印象』『観念』の概念が出てくる。人間は外部からの時々刻々と変わる情報を感覚として蓄えることによって知識を増やしていき その知識(過去の)を使って新たに入ってくる情報を判断するってことなんだ。あくまでも一つの考え方だけどね。
自問自答

考える仕組み Ⅱ

感性・悟性で外部情報を収取する。それを理性が分析判断する。人間が考える仕組みっていうのはそういうことなんだとは思うよ。でも理性ってものは人間にしかないんだろうか?他の生物たちだって理性を持っていると考えたほうが(その機能は違うかもしれないけど)合理的だと思うんだ。だとしたら人間と他の生物との違いっていうのはなに?
自問自答

考える仕組み Ⅰ

『考える』ってことを考えてみよう。ぼくたちが外部の世界を知るためには外部観測器官をフル稼働して情報を手に入れる必要があるよね。その役目が感性・悟性の仕事。でもその最先端にある感性は触れることでしか情報を入力できない。そしてなおかつデジタル情報しか入手できないんだ。その半端な情報でバトンタッチされる悟性も大変だね。
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自問自答

悟性・理性

人間の認識能力には限界があるっていうのは哲学・自然科学どの方面から見ても否定されないことだと思うんだ。その限界値をすこしでも広げようと学者たちは努力しているんだね。なぜ認識能力に限界があるのか? もともとの人という種の限界もあるだろうけどなにより人間が直接外部の世界とは接触できないってことが一番のネックなんだ。
自問自答

人間の限界

物理学にしても哲学にしても それこそ学問にこだわらなくてもぼくたちが興味を示すのはあくまでも『人間』基準のものなんだってことをわかっていないとおかしくなっちゃうよね。物理学の観測しかり人間の理性的判断しかり『存在』ってものを『人間』というフィルターを通してしか観測できないっていうのはどうしようもないことなんだろうな。
自問自答

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ぼくがしつこく書いている『デジタル』vs『アナログ』。やはり量子論や相対論でも問題になっているように思うんだ。因果関係っていうのはアナログ、それに対して観測ってもののデータはデジタルで出されるものなんじゃないかな。量子力学の不確定性原理もベクトル量・スカラー量もこの二つの捉え方の違いのような気がするんだけど。
自問自答

一休みしようか

物理学って小難しい数式なんかでとっつきにくそうだけど確定事項を扱っているからある意味単純なのかも。アバウトな部分を極力排除しようって姿勢は見習うところがあるよね。ただ人間にとってシンプルってことは人間の限界までしか理解できないってことなんじゃないかな。物理学のシンプルと哲学のアバウト。なんとか合体できればいいんだけど。
雑学

多世界解釈 Ⅱ

『人間』は波動関数で表せられる世界の中にいるのか外から俯瞰しているのか。そのあたりが『コペンハーゲン解釈』と『多世界解釈』の最大の論点じゃないかな。人間は波動関数の中にいるけど物理学って学問はどうなんだ? ってところが問題。だからこの論争、人間がじゃなくて物理学が波動関数の影響を受けるのかって問題なんだろうね。
雑学

多世界解釈 Ⅰ

『観測』。この言葉が物事をややこしくしている元凶なんだよね。観測ってすごく客観的なデータのような気がするけどあくまで『人間が』って言葉が付いちゃうんだ。では人間は波動関数から逃れるのか? って問題だよね。もし人間が波動関数から逃れられているとしたら解釈の難問が突き付けられる。もし人間も波動関数の中にいるとしたら……
雑学

多世界解釈へ足を踏み入れる前に

観測。そのことばには『人間』が観測するって意味が前提として置かれているよね。物理学ってそういう学問なんだから。だけど相対論もそうだったけど特に量子論ではこの『人間』っていうものが問題になってきちゃうんだね。モノは波動関数で表せられる。人間はモノの一つである。では人間は波動関数でしか語れないのか? という。
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