memento mori

散歩の途中

原点(再稿)

10年くらい前に出会った『散歩の途中』と『コレスでお茶を』という書き込み。ブログだったのかネット小説だったのか覚えていないし 今ではどう検索してもたどり着けないんだけどなぜかはまっちゃった。断片をメモしまくるぐらいにね。あの時 コピペってことを知っていれば全文残せてたんだけど そんな初歩のことも知らなかったんだよ。
散歩の途中

人類の英知ってそれほど馬鹿にしたもんじゃないよ(再稿)

散歩の途中の書き込みは人間の無力さが前面に押し出されているみたい。ただ散りばめられている『仮定』を拾い集めてみるとほんの少しだけど希望が出てくるんだよね。「知覚できないものを認識する能力」とか「切り離された意」とか「認識が『時』・『色』に及ぼす影響」だとか。『仮定』がわかれば面白いことになりそうな気がするんだけどな。
散歩の途中

生命(再稿)

時は均一に色は少し歪に収斂 そして意はより歪な分布をとってしまう。そのアンバランスさを解消するために『生命』というものは発生。その生命の中でも極端に意をその内に内包し過ぎたものはセカンドと呼ばれる歪な生命形態を持つことになる。人類はそういったセカンドと呼ばれる生命形態の一種。ただセカンドには常に危険が付きまとってしまう。
スポンサーリンク
散歩の途中

時・色・意(再稿)

ぼくが土台としている『散歩の途中』。陰謀論より無茶苦茶だけどおもしろいんだ(ぼくにとってはね)。ぼくたちでも知っている天文学・物理学の簡単な情報とそこから広がる偏った推論。詐欺の手口みたいだけど騙されたところ問題ないしね。おもしろがるには丁度いい。宇宙(世界)は時・色・意で構成されている ってちょっと魅力的じゃないかな。
散歩の途中

さあ はじめよう(再稿)

研究者というのはすごい人々。一つのことに集中して考察を深めていく。しかも論理的に正しくないといけない。でも 個人で楽しむだけなら正確さはいらないよね。それこそ陰謀論でも自分で楽しむだけならそれで充分。だからぼくの書くことは荒唐無稽のおとぎ話みたいなものかもしれないんだ。(そこまでおもしろさは無いけどね)
散歩の途中

散歩の途中

世界だとか 存在だとか 生だの死だのって考えたってわかるわけがないよ。根本的な前提条件というものが欠如しているんだから。論理は土台が無い限り組みようがないし 人間は因果関係が無いものは考えられないらしいんだ。だからここは強引にでも土台を作らないとね。ぼくの土台は『散歩の途中』という荒唐無稽な書き込みなんだ。
自問自答

振出しに戻る

『メメントモリ』 どうせ人は死ぬんだよって たぶん一つの事実。だから人はどう生きるかなんて考えちゃう。でも『死』 特に自分の『死』ってなんだろう? 他人の死は理解できるけど自分の『死』に実感がわく? 宇宙(存在)・時間・意識を突き詰めればなにかわかるのかもしれないけど未だ人類の研究はそこまで進んでいないんだよね。
自問自答

哲学編の中途半端な結論

精神が主か肉体が主か。なかなか結論の出ない問題だよね。ただじぶんが考えていると思っていることの約50%は遺伝によってもたらされているもの。残りの50%の学習(努力でもいいけど)による習得もそのほとんどは進化・時代・環境の刷り込みによるものだからね。果たしてじぶんという『個』のアイデンティティはどこにあるんだろう?
自問自答

精神と肉体

存在と現存在。言葉にすればかっこよく聞こえるけど単純に自分自身とそれ以外の全宇宙 (世の中のすべてかな)の関係性のことだね。ぼくたちは自分の持っている五感でだけ世の中と接している。五感なんてたかが知れているんだよ。暗闇の中で手探りで動き回っているのと大差ないぐらいに。そんな状態で世の中のことが正確にわかるわけがないよね。
自問自答

ひとまずここまでのところ

個が宇宙(存在)は認識できないというのは哲学の中で多数を占めている意見みたいだね。個(人間)は存在の一部であるからとか 生物としての認識能力の限界とか 主張にはそれぞれ理由が述べられているけど 存在の本質に触れることは至難ということで一致しているようだ。その意味では自然科学者の方が挑戦意欲は大きいのかもしれないんだ。
スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました