memento mori

自問自答

悟性・理性

人間の認識能力には限界があるっていうのは哲学・自然科学どの方面から見ても否定されないことだと思うんだ。その限界値をすこしでも広げようと学者たちは努力しているんだね。なぜ認識能力に限界があるのか? もともとの人という種の限界もあるだろうけどなにより人間が直接外部の世界とは接触できないってことが一番のネックなんだ。
自問自答

人間の限界

物理学にしても哲学にしても それこそ学問にこだわらなくてもぼくたちが興味を示すのはあくまでも『人間』基準のものなんだってことをわかっていないとおかしくなっちゃうよね。物理学の観測しかり人間の理性的判断しかり『存在』ってものを『人間』というフィルターを通してしか観測できないっていうのはどうしようもないことなんだろうな。
自問自答

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ぼくがしつこく書いている『デジタル』vs『アナログ』。やはり量子論や相対論でも問題になっているように思うんだ。因果関係っていうのはアナログ、それに対して観測ってもののデータはデジタルで出されるものなんじゃないかな。量子力学の不確定性原理もベクトル量・スカラー量もこの二つの捉え方の違いのような気がするんだけど。
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自問自答

一休みしようか

物理学って小難しい数式なんかでとっつきにくそうだけど確定事項を扱っているからある意味単純なのかも。アバウトな部分を極力排除しようって姿勢は見習うところがあるよね。ただ人間にとってシンプルってことは人間の限界までしか理解できないってことなんじゃないかな。物理学のシンプルと哲学のアバウト。なんとか合体できればいいんだけど。
雑学

多世界解釈 Ⅱ

『人間』は波動関数で表せられる世界の中にいるのか外から俯瞰しているのか。そのあたりが『コペンハーゲン解釈』と『多世界解釈』の最大の論点じゃないかな。人間は波動関数の中にいるけど物理学って学問はどうなんだ? ってところが問題。だからこの論争、人間がじゃなくて物理学が波動関数の影響を受けるのかって問題なんだろうね。
雑学

多世界解釈 Ⅰ

『観測』。この言葉が物事をややこしくしている元凶なんだよね。観測ってすごく客観的なデータのような気がするけどあくまで『人間が』って言葉が付いちゃうんだ。では人間は波動関数から逃れるのか? って問題だよね。もし人間が波動関数から逃れられているとしたら解釈の難問が突き付けられる。もし人間も波動関数の中にいるとしたら……
雑学

多世界解釈へ足を踏み入れる前に

観測。そのことばには『人間』が観測するって意味が前提として置かれているよね。物理学ってそういう学問なんだから。だけど相対論もそうだったけど特に量子論ではこの『人間』っていうものが問題になってきちゃうんだね。モノは波動関数で表せられる。人間はモノの一つである。では人間は波動関数でしか語れないのか? という。
雑学

波動関数の収縮

科学 特に物理学というのは理論構成が完璧でないと正しい仮説とは認められないところが辛そうだね。『波動関数が量子の状態を表す』っていうところまでは仮説として認められているんだ。ただ 観測すれば量子が粒子として見つかっちゃうのはなぜか? ってところでみんな苦労しているんだね。そこで出てくるのが『射影仮説』なんだけど……
雑学

コペンハーゲン解釈だけがすべてか? Ⅲ

コペンハーゲン解釈に対する多くの反論が『因果関係』が崩れるってこと。だけどじつは波動関数自体は因果関係を満たしているんだね。『観測』すると一点に観測されるという事実を導入すると因果関係が崩れちゃうんだ。そこで出てくるのが『多世界解釈』。もしかするとコペンハーゲン解釈の対抗馬になるかもしれない可能性を秘めているんだね。
雑学

コペンハーゲン解釈だけがすべてか? Ⅱ

物理学は自然現象(観測されたもの)がなぜそうなるのかの説明をすること。量子力学でわかっていることは観測すれば量子は粒子として観測され それ以前にはその位置・運動量は確率でしか表せないってことだね。これってモノを細分化していった先にあるものがやはりモノなのかぼくたちの知らないモノ以外なのかって議論じゃないかな。
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