memento mori

雑学

自由電子と電流

単純に金属内を伝わる電気を考えてみよう。豆電球を繋いだ銅線に乾電池を接続するみたいな簡略化で良いと思うよ。どうやって導線の中を電気は伝わっていくのだろう? その速度は光速に近いのか? 光速に近いとすれば流れていく電子の質量はどうなるんだろう? この方面にまるで素人の人間にはわかりにくい問題じゃないかな。
雑学

電気って?

太陽光発電はn型p型のパネルの張り合わせなんて簡単に書いたけど言葉は知っていても内容は知らないという典型的無責任な書き込みだね。でもそこに行き着こうと思うと『電子』『電気』の違いや電子の運動なんてところから始めないといけないんだから困ったもんだ。なにより電子なんて見たことも触ったことも無いんだから説明は難しそうだね。
雑学

太陽光発電

光電効果というと身近に感じられないけど 太陽光発電というと馴染みがありそうじゃないかな。馴染みはあるけどなぜ太陽の光がガラス板に当たっただけで電気が発生するのかわかっている人は少ないような気がする。この発電システム1800年代前半から知られていたみたい。でも セルやモジュールやアレイそんな言葉だけじゃわかりにくいよね。
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雑学

量子力学へのスタート

量子力学の始まりなんていたって簡単なもの。物ってものの最小単位は何かを知りたいっていう欲求からだね。ただ相手があまりにも小さすぎる 直接観測なんて及びもつかないんだ。だからこのあたりから理論先行の数学よりの研究になっちゃうんだよ。でも数学は言語。ぼくたちには想像もつかない結論を導き出してくる時があるんだよね。
雑学

さあ 始めてみよう

初期の量子力学を書いた自分の文章をもう一度見直してみよう。量子力学の出発点なんて昔から議論されていた モノを細分化していったらどうなる? って単純な疑問。ギリシャ時代からあった疑問にやっと実験・観測能力が追い付いてきたということだろうね。やがて分子が見つかり原子が想定され……。 そこでやめときゃよかったんだけど。
散歩の途中

一縷の希望

散歩の途中は物語でしかない。『わたし』と『エオ』の問答集で構成されている。だけどプロローグとエピローグには小説風の描写がある。最後にはやはりその部分を入れておこう。セカンドである「わたし」の立ち位置はどこになるのか。そして「わたし」というセカンドとファーストの関係は。語られてはいないが 示唆はされているのかもしれない。
散歩の途中

セカンドと宇宙

知覚できないものを認識する能力。それがどういった意味を持つのか 結局なんら確証がは出て来ない。セカンドと呼ばれるぼくたち人類はただの使い捨ての道具。これは納得してもいい。ただ無理やり作られた装置だけに予期せぬ危険性を秘めている。そして その危険性は宇宙に対してであって個人にとっては新たな可能性なのかもしれない。
散歩の途中

ひとまずまとめてみよう

人類という存在はセカンドというものに分類される高性能排水装置 納得するかしないかは関係なく憶測としてはおかしくない。そして高性能すぎるがゆえにイレギュラーを起こす可能性があり そのイレギュラーを防ぐためにセーフティ装置が設けられているというのもわかる。ただ そのイレギュラーが必ずしも欠陥で無いとしたらどうだろう?
散歩の途中

ファースト Ⅱ

「知覚できないものを認識する能力」 そうとう特異なの能力かもしれない。われわれにとって知覚できないということは『無い』に等しい。知覚できない存在を認識するということは無から存在を生成してしまうということになりかねないか? その力に目覚めさせないために35億年という時間を使って進化の刷り込みが行われているのかもしれない。
散歩の途中

ファースト Ⅰ

われわれ人類がセカンドと呼ばれる排水装置の最終形だとしよう。効率だけで考えれば最大効率の排水装置を使えば物事は単純に進むはず。では なぜ初めからその手段を使わないのか。高度な機器になればなるほど取り扱いが難しくなり 暴走を起こさないための制御装置が必要になるからだ。われわれセカンドの制御装置 それが進化の刷り込み。
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