古代ギリシャ哲学

雑学を収集しようじゃないか雑学
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     紀元前のギリシャ

さあ、ぼちぼちとギリシャ哲学あたりを書いてみよう。

だいたい紀元前7世紀くらいから5世紀ぐらいかな。

とは言ってもこの時代の文献ってのがほとんど残っていないだよね。

だから推測やら伝聞でしかわからないんだけど

じつに本当にすごいというか、おもしろいというか

ギリシャってすごい国だったんだなって

思えるんだ。

たまに残っている文献でも

今の時代みたいに論文形式では彼らの思索が発表されていない。

その当時はじぶんの考えを発表するのに

詩として発表するのが常識ってやつだったからなんだそうだ。

詩ってのは意見を短くまとめてある

だから、ひとによって解釈がわかれちゃうことが

多々あるのはしかたがないよね。

チャットみたいな短文でやりとりして

意味もなく気まずくなるみたいなもんだよ。

もうひとつ

かれらは先駆者だったってのもある。

それまで世の中の不思議は

なんでもかんでも『神』さまのせいにしていたら丸く収まっていたのに

それに理屈をつけようとしたんだから

説明には困ったはずだよ。

いままで聞いたことも考えたこともなかったものを

他人に伝えるってのは難しいに決まっている。

だからいま伝わっているものが

正しいのかどうかは保証できないから

あくまでも『らしい』でしか書けないんだけど

かれらの関心は自然と宇宙にあったってことらしい。

自然の驚異や脅威、宇宙の不思議を

それまでは神話の世界で語られていたのを

神の力じゃなくて自然現象なんじゃないの?

って考えだしたひとたちってことなんじゃないかな。

すべてのものはどこからくるんだろう?

(物事・宇宙のはじまりは何なの?)

すべてのものは何からできているんだろう?

数というものが多くのものを説明できるのはなぜ?

なんてことを考えていたってことらしいね。

『らしい』ばかりで申し訳ない。

どこまでが本当でどこまでが後世でつくられたものかさえ

はっきりとはわからないんだけど

現代の考え方の先駆者だったって言ってもいいような気がするな。

それに裁判じゃないんだから

少々後世の作り話が混じってもいいんじゃないかな。

もともと哲学の主要問題とされる真実と事実の関係だって

事実はけっしてひとには認識できないってのがあるじゃない。

だから適当に解釈しても許してもらえるってことにしておこう。

かれらの提案した論理は観察にもとづいているとはいっても

思考実験の要素が強かったんだ

(実験装置もまだまだ不完全だったろうからね)。

そのためかれらの出した結論に

ほとんどの後世の自然科学者たちは

相手にしようとしなかったけど

その姿勢だけは評価したってことになっているようなんだ。

それでもそのなかには

タレスの定理やピタゴラスの定理

不完全とはいえ原子論まであるんだから

やっぱりすごいとしかいいようがないよ。

     ソクラテス

このひとは有名だね。

ソクラテスさんもほとんど文献を残さなかったのは彼以前の哲学者たちと同じ。

ただその弟子のプラトンさんが

ギリシャ時代で初めてといってもいいぐらいに

後世に残る資料を作ってくれたもんだから

古代ギリシャ哲学者の代表格として

なまえが売れているってことだとおもうよ。

ソクラテスさん、ぼくでも知っているのが

『無知の知』ってやつ。

ひとが知っていると思っている知識なんてほんのひとにぎり

知らないことの方が圧倒的に多いんだよって。

自称智者って名乗っているおまえらは知らないことにむりやり理屈をつけるけど

想像で導いた知識なんて意味ないんだよ。

おまえらえらそうにしゃべってるけど

ほんとうのことを知ってるわけじゃないことに気が付いてないんだろう。

ぼくは知らないってことを知ってるんだ。

だからぼくのほうが偉い。

ってことじゃないかな。

過去の人のはなしってのは、その時代・地域の環境

(宗教だったり社会制度だったり)がわからないとまるで違った解釈になっちまうから

ちゃんとしたことは専門家に聞いてもらったほうがいいけど。

おぼろげながらわかるのは

当時は『ソフィスト』全盛の時代。

今で言うなら『コンサルタント』全盛ってところだね。

今の『金儲け』についてのコンサルなら

結果しだいでそのコンサルタントの優劣や正誤が測れるけど

当時は「徳」だったり「人の価値」にたいする

コンサルティング。

こうしたら「徳」がつめますよとか

こうすれば人として正しい道ですよ

なんて理屈で説き伏せてコンサルタント料を

もらっていることがあたりまえだったらしいんだ。

ソクラテスさんは言ってることはわかるよ。

でもさ、「徳」ってなんなの?

「正しい道」ってどんな道?

それがわかんなきゃ意味ないじゃん。

だから他人を論破するための理屈じゃなくて

真理ってなに?

ってことを考えた方がいいんじゃない?

って言い続けてたのかもしれない。

なんといっても

本人、なにも書き残していない

(もしくは書いたものが残っていない)

からなんとも言えないけどね。

きっと、ソフィストvsソクラテスさんの論争って

今のネット論争に似ていたのかもしれない。

人ってたかだか数千年では変わらないってことなのかな。

     プラトン:弁証法

ソクラテスさんとくれば当然

次はプラトンさん。

このひとはいっぱい書き物を残してくれているから

語りつくすのはたいへんなんだよね。

文献が少ないとあやふやになるし

文献が多すぎても整理に困るって

困ったもんだ。

よく語られるのは2つ

「弁証法」と「イデア論」

どちらもよくつかわれるけど

使う人によって意味が違ってくるから

実際のところはわかりにくいね。

そのまえに

今でこそ哲学者って分類してるけど

この時代はただの学者のほうがいいんじゃないかな。

思想も突き詰めれば

自然科学・政治学・経済学なんでもござれ。

世の中ってどうなっているのかな?

どうすれば良い世の中ってできるのかな?

ぜんぶまとめて考えていた人たち。

プラトンさんなんてレスリング選手として

大きな大会にまで出場してるらしいから

スーパーマンだよね。

もっとも、いまでもアイドルが歌って踊って

バラエティに出て

俳優をやって声優をして

本を書いてレースして・・・

これだってスーパーマンかもしれない。

また脱線しちゃった。

プラトンさんにもどろう。

まずはわかりやすいところで『弁証法』。

今の時代の弁証法ってやつは

ヘーゲルさんってひとが確立した手法がそう呼ばれている。

ある出来事があればかならずそれを否定するものがあらわれる。

ただその肯定と否定は対立することによって結びついているっていう

なんともややこしい関係だけど、たしかに対立するってことは

同じ土俵に立っているってことだよね。

で、その対立の中から両方を併せ持つ次のステップへの道が開かれる

そして出来上がった概念にはまた対立概念が出て・・・

どんどん上位概念へとステップアップしていくことを目指す

手法ってことになっている。

プラトンさんはそういった体系の研究より

じっさいに真理をつかむために

とことん論争して相手を否定しまくることによって

次のステップへ進もうよってしただけみたいだけどね。

だから『問答法』なんてよばれているそうだよ。

     プラトン:イデア論

弁証法ってのは、真実とはなにか?

ってのを導き出すための技術ってこと

方法論であってそれを使ったから結論がでるってわけじゃない。

プラトンさんにしてもソクラテスさんにしても

きっとその当時の人々

(現代の人々もそうかもしれないけど)

知りたかったのは結論だったんじゃないかな。

ぼくが『ぼくって何?』ということを知りたいために

じたばた雑学を集めたりしてるのだって

結論が知りたいからであって雑学集めが楽しいからじゃないはずだもんね。

ソクラテスさん、どうやら人間には本質は見えない

だけど、見える知識を出来る限り集めることで

すこしでも本質に近づこうよって考えだったらしい。

これってぼくの方法論に近いかも。

でも2000年以上前に考えられてたことなんだから

誇っていいのか進歩がないと貶していいのかは微妙だけど。

プラトンさんも真実は人間には見えない

でも、人の持つ「魂」には真実は見えている

もしくは知っているはずだ

というところにはなしを持っていく。

なぜ真実は人間には見えないのか?

「万物は生成変化する、確定された絶対事象は観察されえない」

ってことだそうだ。

だけど万物の本質(これをイデアって呼んでいるみたいだけど)はある。

それを魂は記憶しているはず。

だから数学や幾何学、そして問答によって

その記憶を呼び戻せるはずだ。

ではなぜ魂は記憶しているといえるのか?

もともと魂は不滅の存在、神々(これが人格神なのか宇宙の摂理なのかは不明)

と共にあった時にそのイデアの世界を見ているから。

う~ん・・・

『魂』と『神』

このあたりになると漠然とし過ぎてそこから『イデア』に結び付けていくのは

もうすこし説明が欲しいところだね。

でも興味深いところはあるんだよな。

ひとつは

―――生成変化する物事は確定・観測できない

ひとは観測した時点でものごとをそうであると認識するだけ

だから、本質が見えているわけではないーーー

これっておもしろくない?

現代の最先端物理量子力学の考え方に近いような気がするんだけど。

もうひとつは神々と共にあった魂が

人間の内に閉じ込められているという発想。

人の魂は、もともとの魂の共同体から切り離されて隔離されてしまった。

魂ってやつはもともと神(この場合は宇宙の摂理だけど)

のそばに一緒にいたものなのに・・・

魂ってのを『意』ってかんがえると

ぼくが土台に置こうとしている『時』・『空』・『意』の関係性に

似ているような気がするんだけどな。

そして閉じ込められてしまった魂は

人間の外部入力機能を使わないと

外部との接触ができなくなってしまっているって考え方。

やはり人間ってただの水くみバケツなのかもしれないな。

     『時』・『空』・『意』

まえにも書いたけど

哲学ってやつは思考とか魂とか神とかがどうのこうの

ってことばかり考えていたんじゃないんだとおもうよ。

ことばってむずかしいから伝わるかどうかはわからないけど

精神と物質がどう分けられていて、どう絡んでいるのか?

そこんとこを考えてたんじゃないかっておもうんだ。

絡みと分別。

それを知るためには精神も物質もより詳しく知らなくっちゃならない。

詳しく知るためには細分化していって・・・

そうして今の自然科学みたいに分類わけされてきたんじゃないかな。

じっさいのところ、100年ほどしかこの世にいない人間にとって

細分化した事実の発見なんてほとんど意味がない。

もちろん個人にとっては、ってことだけど。

それでも、そうした積み重ねが今の世の中を作っているんだから

細かい研究を続けている人たちってすごいと思う。

ぼくにはとてもできないことだもの。

ぼくにとっては、じぶんとは? ってのがいちばんの関心ごと。

精密機械の構造・原理はまるでわからないけど

どのスウィッチを押せばどうなるか

それさえわかればいいっておもってしまう。

それはそれとして

とにかく『ことば』ってやつを

決めておかないとはなしが変な方に行くようにおもうよね。

プラトンさんの唱える『イデア』にしても

これから出てくるアリストテレスさんの

『エイドス・ヒュレー』や『キーネーシス・エネルゲイア』にしても

そのあとに出てくるいろいろな人の『ことば』にしても

捉え方によって全然違う意味になってしまうこわいところがあるんだ。

ましてやぼくの基本言語が『日本語』

書かれている言葉は種々の外国語

(ラテン語やサンスクリット語なんて今でも使われているんだろうか?)。

そんなことばを『和訳』したものなんて

元の感覚からけっこう離れているような気がするんだよ。

哲学を表すのに『形而上学』って

なんかおかしくないかな?

(ぼくだけかもしれないけど)

なんども書いているけど

別に学術論文を書こうなんて思ってないんだから

少々方向がくるっても許されるとして

時間の流れの『時』

物質・存在(無いってことも含んでだよ)の『空』

精神的ありよう(魂・摂理・神そのあたりすべてひっくるめて)の『意』

この『時』・『空』・『意』にあてはめながら考えてみようとおもうんだ。

そこで矛盾が出れば土台の構築しなおしをすれば

いいってことで無理やり納得させて

次にいってみよう。

ことばの使い方も考えの本質を理解するのもややこしいけど

次のアリストテレスさんはもっとややこしいんだよな。 

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