古代ギリシャ時代

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    ギリシャ哲学

アリストテレスさんの業績を上げていったらきりがないと思うよ。

やはりギリシャ哲学の集大成って

位置にいることもまちがいないだろうね。

古代ギリシャの人たちはおもしろい。

さすがベーシックインカムっていうか奴隷制度の時代

人間暇じゃないとダメってこと。

生きるのに四苦八苦してちゃ

かれらみたいに物の本質とか

魂の在り方なんて余分なことを考えているひまがないもの。

世の中、余分っていうか無駄なものにこそ

価値があるんじゃないかな。

―――努力とはおしなべて最高のぜいたくのことかもしれない。

努力はつねに至高の浪費とむすびついてきた。

そして無駄そのものに比類ないある充実がこめられていたーーー

ってね。

ギリシャ哲学に共通しているのは

「本質」というか「絶対的な知」みたいなものが

どこかにあるはずだけど

ひとはそこに到達できてないんだよ、ってところ。

まずひとはそのことに気がつこうよ

そして、それを神さんの仕業だって逃げないで

なんとかたどりつくようにがんばろうよ。

って感じだね。

その絶対の真実みたいなものが

もとから自分の中にあって

それといまのじぶんを摺合せようとするのか

どこかにある真実を探しにいかなくっちゃとするのか。

考え方は違ってもこつこつと目の前の事実を集めて

考えることが大事だよ。

そういっているような気がするんだよな。

かれらはけっしてじぶんたちが絶対者に翻弄されているのだとは

認めようとしなかったに違いないんだ。

今のじぶんはしらないだけで

いつかは、どうにかしてその高みに登ってやる。

って感じが伝わってくるようなのは

ぼくの思い込みかもしれないけど。

かれらのはなしを過去のどこかでぼくは聞いていたのかもしれない。

なんといってもミーハーなぼく

わけもわからず「わたし」ってなんだろう?

なんて考えているのはその影響を受けているだけかもしれないな。

アリストテレスさんの名言って言われるものに

『知覚することは、苦しむことだ』

なんてのがあるけど

『知覚できないものを認識する能力』

ってのは、使うのはつらいことだけど

使わなきゃ存在意義が無い。

ってことかもしれない。

最後に、もうひとりこの時代の哲学者を紹介しておこう。

そうとうの変人だったらしいんだけどね。

名前は・・・

ディオゲネスさん。

    ストレイドッグ

文豪ストレイドッグスって

文豪が大活躍するアニメがあるけど

ディオゲネスさんは

まさにストレイドッグ(野良犬)を

良しとしていた人。

って言ったらあまりにも短絡的かな。

後の、といってもディオゲネスさんの時代にも

すでにあったんだけど、ストア派の中に数えられている

キュニコス派(犬儒派)の代表格みたいな人。

犬(特に野良犬)ってのは古代ギリシャでは

豚と並んで軽蔑されていた動物だそうだ。

その犬の生活をあえて実践

そこから犬儒派って言われているみたい。

別にほんとうに犬のまねをしようってのじゃないんだ。

人がしがみついている

不必要な欲や得なんて犬にとっちゃ意味ないじゃん

野良犬みたいにその場その場で気の向いたほうに進もうよ。

その気が向く方向ってきっと『徳』のある方向なんだ。

だから、本当に大切なものは『徳』なんだよ、ってところかな。

どうしても哲学のことばってのは

理解しきれない。

『徳』って言われたところであやふやだし

だいいち、日本語訳なんだから

元の意味合いと違っていて当然。

だからなんとなくわかったように思っていれば

いいってことにしておこう。

ディオゲネスさんは残した言葉より

逸話のほうが有名だから

気になる人は調べてみればおもしろいとおもうね。

人の法・道徳より自然の秩序に従おうって発想は

『自然に還れ』で有名なルソーさんに似ているかもしれない。

(本人は自然に還れなんて言ってないらしいけど)

そして、社会・時代の刷り込みにとらわれるのはおかしいんじゃない?

ってところが野良犬学派の真骨頂。

そこのところはぼくも大賛成だね。

ディオゲネスさんは犬を手本にしたっていうけど

今みたいにペットになっている犬じゃないよ。

人の言うことなんか相手にしない野良犬を手本にしたんだろうと思うな。

どちらかといえば下手に手を出すとかみつくような

性悪な野良犬だったんじゃないかな。

ストア派の説の中に

「邪悪な人間は車にくくり付けられた犬のように車の進む方向へどこにでも行かされる」

ってのがあるくらい

飼われている犬ってのはキュニコス派のひとたちから

軽蔑されていたみたいだもんね。

虚飾を捨て、欲望から解放されて自足し

どんなものにも動じない心を持つ。

そのため肉体的・精神的な鍛錬をしよう

ってとこだったんだと思えるんだけど。

自由で自足的な生活

そう野良犬のような生活って理想かもしれないね。

    紀元前の世界

古代ギリシャ時代ってのは特殊な世界だったのかもしれない。

その時代に住んだことがないから

本当のところはわからないけど

理屈っぽい人々があふれていて・・・

あまり、お友達になりたくはないかもしれないけどね。

もっともほとんどの人たちは

のんびり(生活には必死だったかもしれないけど)

暮らしていたんじゃないかな。

ぼくの勘違いかもしれないけど

学生運動が盛んだったころの

学生たちをおもいだすんだよね。

(今のひとにはわからないだろうな、ついでに歳もばれそう)

ぼくのまわりの一部の人間だけのあいだだったのかもしれないけど

「どうすれば人は幸せになるのだろう?」とか

「どうすれば世の中はかえられるだろうか?」

なんてことを真面目な顔をして語り合っていたんだ。

どうして学生運動が下火になっちゃったのか

いつか、書いてみたいけど

いちばんの原因はなんとなく

みんなが幸せになっちゃったからなんだろうっておもうよ。

経済成長は素晴らしいけど、怖いもんでもあるんだよね。

で、はなしは戻るけど

ギリシャ時代の真実をもとめようって考えが

どことなく夢物語みたいになっていくのは

きっとそんなことを考えなくてもすがれるものができたから

って、考えすぎかな?

気が付いていると思うけど

かれらが活躍していた時期は

紀元前300年とか400年

初めのころから考えれば紀元前700年ころまで遡るんだ。

そう、紀元前なんだよ。

現代のほとんどの年号は西暦で書かれているものが多い。

西暦ってのはイエス・キリストの生誕とされていた年を

基準としている。

(ほんとうの生誕年じゃないけど)

だから、ギリシャ時代はまだキリスト教がその母体の多神教時代だった

ってことなんだ。

キリスト教だけじゃない。

仏教もイスラム教もガチガチの一神教に

なるまえだったってこと。

自然ひとつひとつに不思議を感じて

なんとかその秘密を解き明かしたいという欲望。

そしてその不思議の織り成す調和は

どこからきて、どこへ向かうのかという疑問。

そんな問いが活発な議論をもたらしたんじゃないかな。

ってのは、ぼくの勝手な思い込み。

    次の世代

西洋中心に書いているけど

紀元前300~400年頃って世界中で

思想家や科学者が傑出してた時代

万能の哲学者たちがいっせいに活動している。

けっして交通手段が発達してたわけじゃないだろうから

どこかが中心でそこから伝播していったわけじゃないんじゃないかな。

時代ってのはたしかにひとつの流れの

ファクターになるんだよね。

キリスト教もイスラム教もほぼ生まれたのは

同じような時代だし

仏教のお釈迦様だけは早いけど

活動していた時代は哲学者の全盛時代

宗教家というより哲学者だったと考えれば納得がいくと思うよ。

なんといっても仏教の元の教えってのは

宗教というより学問に近いもんね。

そして、しばらく哲学者が目立たない

時代が訪れる。

たしかにマルクス・アウレリウスなんて

なまえは出てくるけど

どうもギリシャ時代の受け売りのような感じ

斬新さはないように思うな。

前にも書いたけど

やはり宗教、特に一神教の影響は大きい。

自然の不思議も、心の迷いも

すべて神の御心のせいにしとけば解決するんだから。

初期の段階では物事の根源とは

っていう哲学的発想だったんだろうけど

いつのまにか『神』っていう印籠で

すべてを解決、思考停止に陥らせようとしているように

みえるんだ。

多くの人を救いたい。

そう思うなら、多くの人に知ってもらって

その考えに共感してもらわなくっちゃならない。

みんなが信心すればきっとみんなが幸せになる。

では、どうしたら多くの人に知ってもらえる?

そうだ時の権力者に応援してもらったらいいじゃないか!

宗教の発案者じゃなくて、その組織の運営に携わっていたひと

教団経営者ならそんな発想を

したんじゃないかな。

権力者は権力者で

この頃いろんな不満が出るな。

とくに貧しい人は生活だけで目一杯

世の中の将来のことなんか考えないんだから

困ったもんだ。

そうだ、経済的に満たされなくても

幸せになれる方法をつくればいいじゃないか。

ってところだろう。

宗教がいつのまにか統治のための道具にされていくっていう

本末転倒になっていったんだとおもうね。

でも時の権力と宗教の力関係

どちらが強かったのかは疑問だよ。

なんといっても当時の国家や集団で生き残っているところはないけど

宗教はいまでも生き残っているじゃない。

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